サカナクションは始まりの場所「北海道」から「東京」までの距離と繋がりをこのように歌い続けてきた

サカナクションは始まりの場所「北海道」から「東京」までの距離と繋がりをこのように歌い続けてきた
故郷・北海道で書かれた往年の名曲“ナイトフィッシングイズグッド”をはじめ、サカナクション・山口一郎(Vo・G)は、上京したひとりの生活者として、その思いをいくつもの楽曲に刻みつけてきた。東京に生き、戸惑い、そしてことあるごとに遠く離れた故郷を思い返してきたサカナクション。決して綺麗な夢や希望に満たされているだけではない現実=東京と、胸の中で膨らみ続ける望郷の念は、サカナクションの感情表現において、いわば両輪のような役割を果たしてきたと言える。本稿では、そのことについて考えてみたい。


上京後に製作された『シンシロ』では、“雑踏”というアルバム曲で《心の隙間を詰めていって空いた場所を/何かで埋めようと必死になってしまうんだ/汚れた手を洗うみたいに何もかもが流れてしまえばいいのに》と歌い、また『kikUUiki』へと連なるシングル曲“アルクアラウンド”では、躍動感あふれる曲調の中で《嘆いて 嘆いて 僕らは今うねりの中を歩き回る/疲れを忘れて/この地で この地で 終わらせる意味を探し求め/また歩き始める》と思いを振り絞っている。


プロのミュージシャンにとって、ライブやプロモーション、音源制作など、さまざまな面で東京での活動は効率が良い。早くから情報テクノロジーに敏感だったサカナクションも、その点を踏まえて上京したはずだ。しかし、ミュージシャンに限らず、東京は必ずしも人の幸福を約束する場所ではない。多くの人との出会いが、また忙しない生活や立ち込める不安感が、心をすり減らすこともあるだろう。

先鋭的な音楽を生み出しながら、東京という街に思いを馳せ、ときには郷愁を溢れ出させる。そんな人間臭い空間的/時間的な距離感の描写が、サカナクション作品においては重要な情緒表現の拠り所となってきた。“モノクロトウキョー”や“仮面の街”が収録されたアルバム『DocumentaLy』でも、それはまた然りだ。また“ミュージック”で、山口はこんなふうに歌っている。

《流れ流れ/鳥は遠くの岩が懐かしくなるのか/高く空を飛んだ/誰も知らない/知らない街を見下ろし 鳥は何を思うか/淋しい僕と同じだろうか》

《振り返った季節に立って/思い出せなくて嫌になって/流れ流れてた鳥だって/街で鳴いてたろ/鳴いてたろ》


より快適な場所を、生活の糧を求め、本能に導かれるような希望を抱いて渡り鳥は飛ぶ。しかし、たどり着いた場所で鳴く渡り鳥の声は、もしかしたら泣いているのかもしれない。山口は、自身の歌をそんなふうに詩的になぞらえるのだ。

また“ユリイカ”では、《いつも夕方の色/髪に馴染ませてた君を思い出した/ここは東京/空を食うようにびっしりビルが湧く街/君が言うような/淋しさは感じないけど/思い出した/ここは東京/それはそれで僕は生き急ぐな》と歌っている。


今年4月に公開されたニューアルバム『834.194』のコンセプトムービーに触れたとき、そこで聴こえてくるアンビエントな音像とは別に、僕の頭の中でふいに再生されたのは、他でもなく“ナイトフィッシングイズグッド”の歌の風景であった。コンセプトムービーの、高速移動でスクロールする風景とそこに滲む情緒は、この曲のドラマティックで奥行きのある曲調を反芻している気がする。


《いつかさよなら 僕は夜に帰るわ 何もかも忘れてしまう前に/ビルの灯りがまるでディレイのように流れてた いつまでも》(“ナイトフィッシングイズグッド”)

人は故郷を離れ、何を忘れ、どんなふうに変わってゆくのだろうか。しかし、人の心はデジタルに容易く上書き保存することができるものではない。先行配信された“ナイロンの糸”や、CMで公開された“忘れられないの”にも、遠く離れてきたからこそ大きく膨らむ郷愁が、立ち上っている。我々は、こんなふうに人間味を伝えるサカナクションにこそ、惹かれてきたはずだ。アルバム『834.194』の謎めいたタイトルの意図については、目下のアリーナツアーでも語られているけれど、リリースに伴ってさらに明かされてゆくだろう。楽しみだ。(小池宏和)

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