【コラム】嵐はなぜ新作『Japonism』で「日本」を背負ったのか?

【コラム】嵐はなぜ新作『Japonism』で「日本」を背負ったのか?

嵐の14枚目のアルバム『Japonism』は、タイトルもずばり「日本」をテーマにしたコンセプトアルバムだ。三味線や雅楽、祭り囃子のフックを随所にフィーチャーし、布袋寅泰がドラマティックな「和」のリフを繰り出し、歌詞には桜、サムライ、花鳥風月……といったフレーズが踊っている。しかもそれらが単なるエキゾチックな味付けではなくて、とことんスムーズでフレンドリーなポップミュージックへと仕立てられていくのがさすがのプロダクションなのだが、何よりもこのアルバムから強く感じるのは、コンセプトを明確に打ち出そうとする嵐の姿勢そのものだ。

EDMやベースミュージックを大胆に取り込んだ前作『THE DIGITALIAN』(2014)から本作へ、もっと言えば『Popcorn』(2012)のコンサートツアー辺りから、嵐は再び「打ち出す」グループになってきたように感じる。サウンドの方向性をはっきり提示し、向かう先の未来を迷わず指差す潔さ、その強い意思が、日本で最もポピュラーな人たちの音楽に宿っているのは、何気に凄いことだと思う。
いや、「打ち出す」グループに「なった」と言うよりも、もともと嵐はそういうグループだったというのが正しい。たとえばファンク、ディスコにこだわりまくった『How's it going?』(2003)のように、ラディカルなアイドル決起宣言として鳴った『ARASHIC』(2006)のように、彼らがトップアイドルになる前夜、嵐はそのオルタナティヴの時代に、アイドルらしからぬアーティスト性と誰よりもアイドルであろうとする心意気のハイブリットを模索し、独り格闘してきたグループだったからだ。

しかしその後、嵐は名実共に日本一のグループとなり、メインストリームのど真ん中を席巻し始めた。10周年を経て最初の頂点を迎えた2010年前後のアルバム(『僕の見ている風景』『Beautiful World』)は、今改めて聴き返すと「打ち出す」ことはひとまず横に置いておいて、「受け入れる」ことを目指したアルバムのように聴こえる。
国民的アイドルとしてとことん汎用可能で最大公約数的な作品を作ること。それもまたポップミュージックの正義だし、それは彼らが背負っていたものの記録、当時の嵐のポジションだからこその使命のようなものだったのかもしれない。嵐がなりたい嵐であることよりも、嵐に求められる嵐であろうとしたーーそういう時代が彼らにはたしかにあったと思う。

とは言え、背負っているものの重みでいったらこの『Japonism』だって負けてはいない。なにしろサウンドだけの話じゃない、ここにあるのは日本そのものだからだ。その背景には震災後、継続的に被災地支援を続けて来た嵐だからこその説得力があり、さらに深部では2020年を見据えた国家的な期待も彼らの肩に乗っている。今、「日本」を冠した何かをここまで真正面からやれるアーティストは、恐らくこの国には嵐しかいない。
そんな重圧にも拘らず、なぜ『Japonism』はこんなにも風通しがよく、弾むような昂揚に包まれたポップアルバムたりえているのか。それは単純な話で、これこそが彼らがやりたいことだったからだと思うのだ。これこそが嵐がなりたい嵐であると信じられる幸福が本作にはあるからだ。実際、こんなにも彼らのユニゾンが美しく、快活に、迷いなく突き抜けて聞こえてくるアルバムも久々だ。

そう、5人のユニゾンの美しさはいつだって嵐のサウンドのキーポイントなのだけれど、本作は各メンバーのソロ曲もすこぶるいい。まさに5者5様、放射線状に伸びていく5色が再び合わさって無限&無敵の5人となる、そんなアイドル・嵐の存在の奇跡を目撃できるのも、このアルバムの醍醐味だろう。(粉川しの)
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