今週の一枚 ACIDMAN『Λ(ラムダ)』

今週の一枚 ACIDMAN『Λ(ラムダ)』


2016年のファン投票ベスト『ACIDMAN 20th Anniversary Fan’s Best Selection Album “Your Song”』と同発のシングル『最後の星』、2017年に入ってからのシングル『愛を両手に』と『ミレニアム』、さらに2マンツアーから初の主催フェス「SAI」と、結成20周年イヤーを駆け抜けてきた3人の男たち。ロックシーンにおける彼らの存在感が、多くのファンやバンド仲間によってあらためて浮き彫りにされる季節だったと言えるだろう。

弛まぬ思考に裏付けられたトリオのサウンドは、その想像力の広がりに比例する巨大なスケール感をもって20年もの間躍動し続け、ロックシーンにひとつの絶対基準を打ち立ててしまった。彼らがいなかったら、きっと今日我々が見ているロックの風景はまったく違うものになっていたはずだ。積み重なる哀しみに押し潰されそうなとき、命の灯火が消えゆくときこそ、ACIDMANのロックは最大の力を発揮して、我々の閉じた意識と感性をこじ開け、広い宇宙の終わりのない時間にまっすぐ向き合わせてくれた。

そして、ギリシア文字の11番目を冠した通算11作目のフルアルバム『Λ(ラムダ)』が届けられる。誤解を恐れずに言えば、ここにいるのは我々が知っているACIDMANである。我々が全幅の信頼を寄せるACIDMANが、完璧な形で応えてくれたアルバム、と言い換えてもいい。終末感を踏み越えて鳴らされ、いつしか生命の迸りに巻き込まれている、逃れ難いロックの時間。彼らが20年かけて育んできたものが、いちいち頷かされてしまうほどの高い精度で、言葉とサウンドを紡ぎ上げている。驚くほどのロマンに満ち溢れながら、3人がACIDMANであることを引き受けているアルバムだ。

静と動を、抑と揚を鷲掴みにするアンサンブルの“白い文明”。その曲の中で大木伸夫(Vo・G)は《君は何億の 僕ら何億もの/生命の果ての命さ/それは始まってるんだ》と歌っている。たった今、忌まわしい運命が目の前にあったとしても、それ以前に我々は奇跡的な運命の巡り合わせを経てここにいるのだということ。ACIDMANはこれまでにも、あの手この手でそれを伝えようとしてきた。人の一生をマクロ視点で捉え、刻一刻と移ろうロックサウンドのうねりに説得力を宿らせながら、スケール感が大きすぎてなかなか見えない現実を彼らは見せてくれる。

序盤から壮大な意識の広がりに飲み込まれてゆく手応えがある一方で、クール&ファンキーなコンビネーションが次第にホワイトノイズで塗り込まれる“ユートピア”、アンビエント〜ポストハードコアな音像で感情を沁み渡らせるインスト曲の“Λ-CDM(instrumental)”、そして記憶を引き摺りながら猛烈な爆走で襲い来る“空白の鳥”(映画『犬猿』の主題歌)という、さまざまな表情でアルバムの奥行きを担う中盤の構成が素晴らしい。運命を受け入れながらも、そこで無感動・無表情になるのではなく、徹底的にいびつな人間臭さを晒け出すことができる点が、ACIDMANの凄さだ。知性のロックを20年鳴らしながら、まったく「冷めて」いないのである。


アルバムの最後に配置されているのは“愛を両手に”だが、その直前の“光に成るまで”がまた素晴らしい。この歌はこんなふうに結ばれている。《時が過ぎ やがて全ての命が 消えていくなら/この心で この言葉で この祈りで/何が見えるのか?/今は遠くまで ただ遠くまで 夜が明けるまで/光になるまで》。美しく物悲しいサウンドスケープを追い越さんとばかりに、このとき大木は高らかに声を張り上げている。20年を経ても、何か確かな答えが見えているわけじゃない。ACIDMANという活動の根幹に迫り、ACIDMANそのものに挑むような歌だ。1曲ずつ、ページをめくるように、そのピュアな表現衝動へと辿り着くアルバムになっている。(小池宏和)
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