クリープハイプはなぜ『泣きたくなるほど嬉しい日々に』で世の中に対してありのままになれたのか?

クリープハイプはなぜ『泣きたくなるほど嬉しい日々に』で世の中に対してありのままになれたのか?
クリープハイプの最新アルバム『泣きたくなるほど嬉しい日々に』を初めて聴いたとき、テレビ越しに朝のお茶の間に顔を覗かせたりしていた尾崎世界観(Vo・G)の意図が、するすると読み解けてゆく気がした。誤解を恐れずに言えば、クリープハイプ史上もっともオープンで、ポップなアルバムだということになる。ちょっと決まりが悪そうな顔で、でも大好きな野球の話題となれば途端に嬉々として語りだすような、そういうクリープハイプらしい佇まいがこのアルバムには詰まっていて、リスナーと正対している。

《いつかのさようならの前に ちゃんと言っておきたくて/全部嘘になる気がして 怖くなるけどちゃんと話すね》。アルバムの冒頭に配置された“蛍の光”の歌い出しに、リスナーと正対する姿勢はしっかりと刻み付けられている。オープニング曲なのに“蛍の光”というややこしさも引っ括めて、聴けばわかるから、という丹念に紡がれた言葉が、とめどなく溢れ出してくるのだ。

キラキラと華やいだディスコアレンジで驚かされた“イト”や、あのクリープハイプが『みんなのうた』!?と度肝を抜かれた“おばけでいいからはやくきて”も、この音楽的なバラエティ性に富んだアルバムの中では綺麗に収まっている。逆に、『もうすぐ着くから待っててね』でフィリーソウル風の手の込んだアレンジを聴かせていた“陽”は、ライブ感を漂わせる大らかなロックサウンドに生まれ変わった。クリープハイプは、4人のシャープでしなやかなロックサウンドに、強いこだわりを持っていたはずだ。そんな先入観に対しては、“蛍の光”、“今今ここに君とあたし”、クリープハイプ版“栞”というパンチの効いた序盤3曲で、先手を打つように応えておくあたりも抜かりない。

長谷川カオナシ(B)流の艶かしさと衝動を込めてスウィングする“私を束ねて”も含め、サウンド面では以前よりもぐっと彩り鮮やかになって、これがポップな手応えを増していることは間違いない。尖ったロックバンドがより大きなポピュラリティを目指す過程で、一番困るのは濃厚だった表現が薄味になってしまうことである。では、明らかにより多くのリスナーと向き合おうとした『泣きたくなるほど嬉しい日々に』の場合はどうだろうか。

尾崎らしい、やさぐれた悪態の爆発力ということだけで言えば、“金魚(とその糞)”あたりに見つけられるかもしれない。しかしそれだけではなくて、《夜中のコンビニも 駅の喫煙所も/ゆらゆら揺れて見えなくなったよ/2人のついでより 煙草を買うついでみたいな/2人だった》(“禁煙”)というような生活感の滲み出る文学的な後味は、往年の“左耳”や“寝癖”といった作品に勝るとも劣らない素晴らしさだ。音楽は人と人とを繋ぐけれども、それ以前に人と人はいびつでややこしい関係にあるということ。尾崎はいつでもそのことを歌にしたためてきたし、『泣きたくなるほど嬉しい日々に』では、いびつでややこしい関係について歌うことを諦めなかった、ということなのだ。

《頭の中ではわかってるんだけど赤でも待ちきれなくなって/行ってしまうのに/どうして青なら安心してしまって大事な事も言えなくなるんだろう》(“愛の点滅”)

《居場所がなくなって 自分だけがいつも/ひとりだと思う日も/なんだ偶然だな ほら一緒だよ/だからなに うるせーよ》(“ゆっくり行こう”)

この新旧の2曲の違いはなんだろう。違っているようで、実は尾崎世界観は同じことを歌っているのではないだろうか。いなければ寂しくて仕方がない、いたらいたで面倒臭く厄介な、人と人との関係を歌っている。音楽はそこにこそ鳴り響くべきだ。言葉を尽くすことを諦めず、しかしすぐそばにいる人に《うるせーよ》と告げること。最高にポップなロックアルバムを《うるせーよ》と締め括ること。これこそがクリープハイプでなくて、一体何だと言うのだ。(小池宏和)

クリープハイプはなぜ『泣きたくなるほど嬉しい日々に』で世の中に対してありのままになれたのか? - 『泣きたくなるほど嬉しい日々に』通常盤『泣きたくなるほど嬉しい日々に』通常盤
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