羊文学に感じる「オルタナティブ」の正体とは何か――最新作『ざわめき』にどうしようもなく癒される理由

今年2月にリリースされた、羊文学の『ざわめき』がとてもいい。現在の、このいかんともしがたい日常の中で、モヤモヤと晴れない気持ちを一瞬スッとニュートラルにしてくれて、それが不思議と癒しになるような、そんな作品だと思う。それは現実逃避のための音楽だということではない。決して癒しのために作られた音楽ではなく、ましてやこの社会情勢に警鐘を鳴らすために歌われる歌でもない。ただ、羊文学が元来持っている「オルタナティブ」な魅力、それが作為なしに自由に鳴り響いているという、その「自然」な歌の在りように、今とてつもなく「癒し」を感じるのだ。サウンドも歌詞も、前作よりむしろ尖っているというのに、静かにじわじわと「ざわめき」を呼ぶようなギターサウンドが聴く者の心を癒すというのは、ロックバンドの在り方として、とても強いのではないか。『ざわめき』は、それを強烈に感じさせる。

羊文学は、ソングライターである塩塚モエカ(Vo・G)、ゆりか(B)、フクダヒロア(Dr)の3人からなるロックバンドだ。2017年に1stEP『トンネルを抜けたら』、2018年には2ndEP『オレンジチョコレートハウスまでの道のり』、そして1stフルアルバム『若者たちへ』をリリース。繊細さと獰猛さを併せ持つギターサウンドと透明感のある歌声で、世代を超えた多くのロックファンの耳を惹きつけていった。女性ボーカルで、メンバーのうちふたりが女性であるといっても、ガールズバンドという呼び方は羊文学には似合わない。当初から、そして現在も誰もがそう感じていると思うが、昨年7月にリリースした『きらめき』では、そうしたイメージさえ覆すかのように、「女の子」をテーマに据えて、あえてポップな側面に思い切り光を当てるような作品を作り上げてファンを驚かせた。確かに“ロマンス”の振り切れたポップセンスはバンドの新機軸であり、羊文学の音楽性の広さを感じさせるものだったけれど、羊文学の音楽は当初からポップな要素を持ち合わせていた。だから『きらめき』は、音楽性の大きな変化というよりも、「女の子」というテーマに「羊文学が正面から切り込んだ」という点こそが新しかったのだ。少し意図的にそこを際立たせてみせたことによって羊文学の楽曲はぐっと有機的な感触を持ち始めた。 1曲目の“あたらしいわたし”の弾むようなポップネスからして、初めて羊文学に触れる人にとっても親しみやすい作品になった。そんな『きらめき』から、最新作『ざわめき』へ。まずリード曲となる“人間だった”を聴いて、そのどこかストイックな骨太さに、今度は逆に驚いた人も多かったかもしれない。しかし、この曲こそが今、不確かな日常の中で強く響く。


そもそも塩塚モエカは、『きらめき』リリース時のインタビューで、同作と次の作品とは、もともと2枚でひとつの作品になるようなものにしようと思っていたのだと語っていた。しかしおそらく制作していくうちに『きらめき』のコンセプトが色濃く際立ってきたということもあるのだろう。『きらめき』は単体でリリースされ、次作『ざわめき』は、『きらめき』のその後というイメージがありつつ、明確に『きらめき』と対になるというよりも、独立したひとつの作品として、現在の羊文学を表すバンド史上最高の作品となった。作品ごとにその時々で少しずつカラーは違うし、その時のモードやコンセプトを反映するがゆえに、特に『きらめき』と『ざわめき』には「変化」を感じるのは当然なのだが、変化するというよりも、拡張した、あるいは進化したという感覚のほうが強い。『ざわめき』はとてもナチュラルにバンドとしての進化と拡張を遂げていて、さらに言えば、やはり『きらめき』があってこその『ざわめき』なのだと感じる。『きらめき』の最後に “優しさについて”という曲がある。この曲は、『きらめき』と最新作『ざわめき』とをつなぐ曲だと思っている。羊文学の原点と進化とを同時に感じさせるような、バンドの核が示されているように感じられる曲だ。美しいギターアルペジオ、清らかなまでに胸に沁み入る歌声。儚さと不穏さの中にあって癒される、そのオルタナティブな音像こそが羊文学なのだと。

『きらめき』リリース時のインタビューの際に聞いた話だが、この“優しさについて”は『きらめき』収録曲の中でもあとのほうにできあがった曲なのだそうだ。そしてこの曲は、エリオット・スミスの“Waltz #2(XO)”をライブでカバーしようと練習しているうちに、“Waltz #2”のような曲を作りたいという思いにかられ生まれた曲だということも話してくれた。“Waltz #2”のアコースティックで美しくも影のあるロックサウンドは、陰鬱の中でかすかな光を手繰り寄せるような歌だ。そんな、エリオット・スミスのイメージと羊文学の音楽性は、確かに重なる。共通するのは、儚くて、粗雑に過ごしていたら簡単にやり過ごしてしまう一瞬の「気配」のような歌。心になぜだか兆してくる「予感」のような音。それこそが『ざわめき』につながったのではないかと思う。『きらめき』と『ざわめき』は相反するものではなく、地続きにあるものであり、『きらめき』で羊文学としてのポップを極めたからこそ、『ざわめき』では「羊文学が表現する『オルタナティブ』とは」という答えが鮮明に、そして実にナチュラルに浮かび上がったのではないかと思う。

80年代の終わりから90年代にかけて、世界的にオルタナティブロックの隆盛があり、サウンドやメロディに宿る激情に、抗いようのないポップが表出する瞬間こそがリアルだと、若者たちはその音楽に共鳴した。ノイジーで歪んだギターサウンドは、ダークサイドへとつながる亀裂を露わにしながら、その危うさの上でこそ美しく響くメロディがあり、叫びがあり、それこそが逆接的にリスナーの心を癒した。羊文学が表現するオルタナティブサウンドは、その系譜を汲んでいるものでありながら、現代のポップミュージックとして不思議な心地好さを感じさせるものでもある。だからこそ新しく、今の時代に「癒し」を感じさせるのだと思う。そして『きらめき』は、羊文学は「オルタナ」という「ジャンル」にとらわれているバンドではないという意思表示でもあった、と、私は受け取っている。結果的に、そのはじけたポップさは、次作の『ざわめき』での進化につながった。とてもナチュラルに時代の空気を感じ取りながら、のみ込まれて流されるのではなく、その空気を内省的な視点とともに俯瞰でとらえ、独特の距離感で音楽にして表現する。羊文学ならではのポップミュージックが確立したと言ってもいい。ロックバンドとしての矜持を失うことなく、その凛とした佇まいは結成当初から変わらず、バンドサウンドは進化と拡張を続けていった、そのひとつの到達点が『ざわめき』なのではないかと。突きつけられるような“人間だった”でさえ、どこか救われたような気持ちになる。

街灯の街並み 燃える原子炉
どこにいてもつながれる心
東京の天気は晴れ、晴れ、雨
操作されている
デザインされた都市
デザインされる子供

ポエトリーリーディングのように、つぶやくように吐き出される言葉には、現代社会の、私たちの生活の病理が映し出されている。けれど《神さまじゃない》と歌うラストへと向かう、内省を抱えたままで味わう解放感は、まさしく2020年のオルタナティブだ。そのリアルな感覚こそが、今の時代に必要なのだ。

今、先の見えない時代を生きる私たちはどんなふうに自分の感情に向き合っていけばいいのだろう。どんなふうに居場所を守っていけばいいのだろう。本当はひとりでそんな問いに向き合う時間が必要なのに、世界中が同じ問題を抱えて、同じ時間を共有せざるを得ない日々が続く。その時間軸からふと横道に逸れてみる。それこそオルタナティブではないか。そこにひと時、自分だけの居場所があると思える、そう感じさせてくれる音楽は、儚くとも頼もしい。 “祈り”という曲もまたそんな歌だ。

はじめに書いたように、『ざわめき』は決して、今のこのコロナ禍の時代を生きるために作られた作品ではない(それ以前に制作されたものである)。しかしなぜか時代と共振する。それは塩塚モエカが持つ、作為的ではない「時代を感じ取る」直感の確かさなのだとも思う。『ざわめき』は彼女が感じ取る、そんな気配と予感とが音楽として高らかに鳴り響いている。マジカルな熱狂の中で地に足の着いたリアルを受け取る──そもそもこの相反する在り方こそがロックなのだと思う。羊文学のオルタナティブに、今こそ触れてみてほしい。(杉浦美恵)


『ROCKIN'ON JAPAN』2020年7月号