秋山黄色の『FIZZY POP SYNDROME』は、なぜこれほどまでに「リアル」なのか――このアルバムの凄まじさを何度でも語りたい!

秋山黄色の『FIZZY POP SYNDROME』は、なぜこれほどまでに「リアル」なのか――このアルバムの凄まじさを何度でも語りたい!

秋山黄色の2ndアルバム『FIZZY POP SYNDROME』はとんでもない名作だ。聴くほどにその思いは確信に変わる。現代の日本の音楽シーンにおいて、いつしか「ロック」は前時代的な響きを持つ言葉になってしまった。けれど、このアルバムはもう一度、ロックはリアルな時代性を伴った大衆音楽として、多くの人の心を震わせることができるものだと証明してくれたように思う。もちろん本人はそんなつもりで作っているわけではないだろう。だからこそ、なのだ。ロックとは目指すものではなく、「結果としてそうある」ものだ。ではなぜ、このアルバムはこれほどまでに生々しい「今」の音としてロックを鳴らすことができているのだろうか。

これまでの秋山黄色の楽曲にも言えることだが、秋山黄色の歌には声高に叫ぶ明確なメッセージが込められているわけでもなく、まして意図的にロックのエッセンスを取り入れてみたというようなものでもない。彼が歌うその言葉は、リスナーに向けてのものである前に、ごくごくパーソナルな、「私的な」歌である。自身の経験、見てきた景色、感じた痛みが内包されていない曲などひとつもないと言えるだろう。それは、“サーチライト”をはじめ、ドラマやアニメの主題歌といった、いわゆるタイアップ曲においてさえ、というか、むしろ“サーチライト”などは、タイアップだからこそ、いつもより届きやすい言葉で秋山黄色の「私的」な部分が色濃く出たのだと思う。ゆえに、これまでで最も「ストレート」なロックになった。

このアルバムには、他にも、“アイデンティティ”や“夢の礫”といったタイアップ曲が収録されているが、いずれも秋山黄色の楽曲が持つ「リアリティ」はその濃度が薄まることはなく、サウンドアプローチは多彩さを見せながら“サーチライト”同様に、秋山黄色の感情をよりリアルに感じ取ることができる楽曲になった。だからアルバムに入れば、完全に秋山黄色の歌として存在する。サウンドアプローチにしても、もちろん作品サイドのイメージもあるが、その楽曲で彼自身が打ち出したい感情があって、それを表現するとしたらどういう音が最適なのか、ということが第一に考えられている気がする。“アイデンティティ”ならシンセサウンドをフィーチャーしたダークなアンサンブルだし、“夢の礫”なら、ピアノやストリングスのサウンドを取り込んでのポップス寄りのアプローチ。けれど、その美しくドラマチックな“夢の礫”にも、どこか不穏な空気が混じり込み、「夢」という不確かなものへの苦い思いが滲み出す。歌詞とサウンドとメロディ、それらすべてで、秋山黄色は自分自身を表現しているのだと思う。だからこそ「リアル」なのだ。シンセや打ち込みを使うのもその感情を表すための必然であり、それでもなお歪んだギターの音がサウンドの核にあるのも必然なのだ。彼の感情の中にずっと消えずにあるもの――やりきれなさ、苛立ち、悲しみ、痛み、そしてその先にあってほしいと願う希望――を音楽で表現する時、エレクトリックギターのサウンドこそがよく似合う。先月号の『ROCKIN’ON JAPAN』に掲載されたインタビューで、彼自身が語った言葉に、その本質が見事に言い表されているので引用する。

「ブルースの人は、いろんなことがあってああいう音楽になった。俺もそうで、いろんなことがあって、こういう音楽になっているんです。その俺っていうジャンルを鳴らす時に、いちばんギターが適切な楽器だと思っているし、俺は普通にギターが好きだし。あと、怒りから曲を書いているから、叫んで当然。なぜかみんな躊躇しますよね。俺は躊躇していないだけ。静かに怒っている人もいますけど、こういうことだ、人生おかしいよなって歌う時に、俺は叫んで当然だと思う。叫びたいぐらい怒っているから。だから、躊躇していないっていうことですよね」


これこそが、秋山黄色の音楽の核にある思想だ。彼がギターで感情を表現する理由だ。そこに何ひとつ虚飾はない。だから私は何度もこのアルバムを「リアルだ」と評したくなるのだと思う。独りよがりの衝動のみでできあがったロックであったなら、これほどまでにこのアルバムに、秋山黄色というアーティストに惹かれることはなかっただろう。多くのリスナーが、“宮の橋アンダーセッション”を聴いた時に、その「ロック」が単なるスタイルではないことを実感したはずだ。私はこの楽曲が大好きだ。初めて耳にした瞬間、強烈な「生」を感じたし、秋山黄色という「人間」を感じた。

《頭のいい人が作った法律の網を/こずるく破って飲む酒はほんとうまいけど/殺人は笑えないし/音楽は言うまでもなく最初から/面白いから歌ってんの》という歌詞。この短いセンテンスに宿る、その軽妙なニュアンスとは別の、言葉にし難い重みがここにはある。どこにも属さない、誰にも媚びない、無駄に噛みつきもしない、逃避というよりもそれは現代を生き抜くために身につけた知恵のような、そんな説得力。誰の上にも下にも立つつもりはない、無駄吠えはしない、けれどそこには誰にも譲れない自分の「生き方」がある。ポリティカルなことに言及しているわけでもないし、社会的な問題提起を行うわけでもない。けれどこの楽曲には、現代社会を生き抜く、カウンターカルチャーとしての存在意義を感じずにはいられないのだ。

この痛快なロックンロールは「日本の」とも「洋楽テイストの」とも言えない響きで躍動している。なぜなら彼のロックはリバイバルでもスタイルでもないからだ。「誇張していない、ちゃんとした実話」(前述の同インタビューより抜粋)を発端に書いたという“宮の橋アンダーセッション”は、彼の出身地である宇都宮に実際にある「宮の橋」という橋の下で起こった、偶発的な祝祭感覚がそのベースにある。言ってみれば、これも究極に「私的」な歌なのだ。それが多くの人の心をつかむというのは、まさに宮の橋の下で素性も知れない者同士が、ひとつの音楽に瞬間心を寄せ合って一緒に踊るという現象とイコールである。この楽曲の魅力はそんな間口の広さにあるし、そこにも秋山黄色の本質は濃く浮かび上がる。秋山黄色は狭いところに閉じこもっているつもりは毛頭ないのだ。この曲は、ほんとに新旧の音楽好き、ロック好きにこそ届いてほしいなあと思う。「時代の音」には見向きもしないオールドタイプのロック好きも、そもそも「ロック的なもの」と距離を置きたいと思っているポップフリークも、一発でその認識が覆されると思う。

続く“ゴミステーションブルース”もまた、秋山黄色が感じてきたごく私的な怒り=ブルースなのだが、この清々しさはなんなのだろう。生々しい歌声で、夢見る者を嘲笑する世間への苛立ちを歌い上げるこの歌。その世間の呪いを受けて、自虐的に自分のことを不燃ゴミだと開き直り、けれど、《声を上げて石を投げる人を横目に/黙って後についてきた人だけに言う/俺はゴミじゃない》と締めくくる。これもまた、逃げたふりで戦い続ける、したたかな時代のメッセージソングではないだろうか。

このアルバムを締めくくる曲として、“PAINKILLER”がある。凄まじい曲だ。彼の「私的」な体験は、この曲では完全に他者への思いとして描かれている。多くの憤りや悲しみを知る秋山黄色が、すべての人の痛みを受け止めて歌うような、彼自身が時代のペインキラーであろうとするかのような、その覚悟が滲む。《なあ その痛みを教えてくれ/俺如きが耐えられる訳もないが/見て見ぬ振りしてしまったら/二度と泣けないような気がするから》という歌詞を、比喩でもジョークでもなく正面から歌うアーティストが、今の日本に他にいるだろうか。本気なのだ、彼は。できることなら、先月号の彼のインタビューを隈なく読んでほしいところなのだが、重要なところをまた抜き出しておく。

「共感ってすっごい大事なんですよね。助けられないぐらいなら、俺も病気になりたいって思うし、現状悩んでいる人に対して、必死に機微を察知してあげたいっていうか。(中略)この人がほんとに最終的に全部やめるってなった時に、俺も一緒になって全部やめて、遊ぶなりなんなり共にするぐらいの覚悟がないと、その傷は治せないんだっていう現実があることを10曲目に置かないと(後略)」

これが“PAINKILLER”の凄まじさ、重さの正体である。自身の歩んできた道や見てきた景色、味わってきた悲しみがあるとして、音楽はそうした様々な痛みを癒やしたり、薄めたりすることができる。それを知る人の音楽は、それがどんなに凶暴に歪んだギターで鳴らされていようとも、とてもやさしい。そこで鳴る音は間違いなく彼の本音であり、誠意なのだ。切実なエモーションが宿る。だから何度も言いたい。このアルバムは「リアル」だ。(杉浦美恵)



秋山黄色の『FIZZY POP SYNDROME』は、なぜこれほどまでに「リアル」なのか――このアルバムの凄まじさを何度でも語りたい! - 『ROCKIN’ON JAPAN』2021年5月号『ROCKIN’ON JAPAN』2021年5月号
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