人と街 - 椎名林檎、あいみょん、ヒグチアイの楽曲に寄せて

「北千住駅のプラットホーム
銀色の改札
思い出話と 想い出ふかし」
あいみょん『ハルノヒ』より

「頬を刺す朝の山手通り
煙草の空き箱を捨てる」
椎名林檎『罪と罰』より

「ロックバンドから見える東京
ホームレスから見える東京
ピンヒールのOLの東京
どれも嘘でどれも本当」
ヒグチアイ『東京にて』より


音楽を聴いていると、街の名前が出てくることがある。そこで生きる彼、彼女たちは笑ったり泣いたりしながら、靴擦れした足のままで街を闊歩する。
音の中に人生がある。つらくもあり、幸せでもあった人生だ。彼らが楽曲に登場するということは、どのような感情を私たちに与えるだろうか。この広い世界の中で、限定された場所に生きる人を歌った音楽は、私たちにどんな思いを抱かせるだろうか。


私たちは常に人と交差し、短い邂逅と別れを経験しながら今を生きている。その中で「個人」に出逢うこと、彼、彼女の人生を知ることはそう多くはない。しかしアーティストたちの音楽を聴けば、彼らの人生に出逢うことができる。どんな人物で、どんな生き方をしてきたかが、イヤフォンを通して語りかけられ、歌われる。


「個人」を歌う音楽は「リスナーと出逢う体験」をパッキングし、CDになり量産されていく。アーティストたちはただ消費されるだけの音楽を作らないプロフェッショナルであるから、私たちはその思考と完成された作品に感動する。だからこそ量産ではない、たとえばサブスクリプション配信など、シームレスでデジタルライクなスタイルも発表におけるひとつの方法となる時代になりつつある。
私たちは一人ひとり、「誰か」になりその曲を聴く。その瞬間において音楽は”マイナンバー”になっている。「個人」を証明してみせる身分証明、そして「私の曲(My number)」という意味合いとして。

楽曲の中で歌われている人物は他人であるが、どこか私とも似ている部分がある、どこか人生がリンクしている、と気づくことがある。先に書いた「個人」と「量産」に次いで興味深いことだ。私たちにとって、他人との境目とは実際、そういったあいまいなものなのである。

量産される音楽と、楽曲における主人公/リスナーという関係が身を置く不特定多数の人間というのは、似通った部分がある。それはどちらも「One of them(多勢のうちの1人)」であるという点だ。

モノとしての量産だけでなく、「誰か」から「誰か」へーーOne to oneへ届ける方法が現れた現代。アイデンティティを模索し、「Nobody(誰でもない)」ポリシーを掲げることが増えた今、現代人は孤独感を抱く夜にサブスクで選んだ「彼ら」の曲をローテーションすることで自分を取り戻す。私も彼らと同じでここにいる、確かに生きているんだという共感が、そこにははたらいている。


地名の入った歌詞というのは、そこに生きる人間を定義する。その「誰か」に思いを馳せるリスナーと、他人でありながらどこか友人、恋人のような関係を築く「彼、彼女」。彼らと私たちの関係はとても美しいものだと断言できる。なぜなら「彼らについて絶妙に詳細を知らないでいる私たち」と、「自分の人生を生きている彼ら」の交わるところというのが、音楽というひとつの頼りな気に見えて力強い芸術、ただそれだけであるからだ。

音楽は粒となり雨となって、私たちの心に降り注ぐ。向こう側に彼らはいるけれど、ともに生きようとするための道は分断されている。残酷かもしれないが、私たちと彼らとはそこまでの関係なのだ。しかし、私たちは一途に想う。もしかしたら、この声が届くかもしれないと思いながら。実のところ、アーティストたちは私たちの声を聴いてくれていて、それを彼らにも届けている。距離こそあれど、通じ合っている。

悲しみや幸せを過度に共有したりせず、ときおり風通しのよい公園で待ち合わせして、ふたことみこと話して別れる。こんな関係を、私はとても心地よく感じる。

また、私たちは自由なタイミングで夢想ができる。彼らの容姿や性格を自由自在に思い浮かべることができる。夏はどんな場所に行きたいか、コーヒーに砂糖はいくつ入れるか、好きな食べ物は何か。私たちはただただ、思い浮かべる。さながらポストに投函する手紙のように、思いは降り積もっていく。

過干渉しない。時々ふと思い出して、考えるだけ。そんなちょうどいい距離感を、綿密なネットワーク社会にどこか疲れを感じつつある現代人は求めているのではないだろうか。


「JR新宿駅の東口を出たら
其処はあたしの庭 大遊戯場歌舞伎町」
―椎名林檎『歌舞伎町の女王』より


土地は視覚を担う。歌舞伎町が浮かぶ。卑わいで、混沌とした唯一無二の街。
場所を限定することで、聴覚的でありながら視覚的な印象を与えることに成功する表現は、私たちの「彼ら」に対する自由な思考をより強いものにさせていく。また同時に、街の抱く人々の感情や思考の凝(こご)りはそのまま身体となり表れ、彼らの肉体に上塗りのように付着していく。

母の面影を背負い歌舞伎町の女王になった彼女は、みだらだ。しかしどこか強かで、清廉な部分を持つ。歌舞伎町を行きかう人々が持つ清らかさを、彼女も持っている。街の派手なネオンに沈む蛍光灯の白い光に似たものを、彼女は心の奥底に潜ませている。


みんな一人ひとり、違う人間だ。そんな人々が行き交う街、という集合体。街自身も、もしかしたら「彼、彼女」なのかもしれない。男か女かそのどちらでもないかは分からないが、彼らも今を生きている。

人々の記憶としての都会。思い出、というにはあまりに生々しすぎるものを抱きながら、今日も東京を歩く。ヒグチアイの歌う人々は、あまりにもリアルで、私は熱帯夜に街を歩く彼らの湿った肌に触れる夢想をした。

特殊な感情が沈着した繁華街。今日も誰かが誰かと、隅で交わっている。そんな中で、切っ先の鋭いまなざしを向けてずっと一人でいる人がいる。孤独ではなく、意志を胸に灯して。椎名林檎の音楽の中では、そういう人たちが息をしている。

エモーショナルな感情の行き場としての駅。吐しゃ物がこびりついた、目を逸らしたくなるような光景の中で彼と誰かがキスをしている。美しいな、と思う。あいみょんという歌い手は、そんな感情のきらめきを希望に乗せてギターをかき鳴らし歌っている。


アーティストたちが歌う、人と街。
みんな、一生懸命だ。みんな、生きている。
だから美しい。だから、音楽が好きだ。

私はこれからも、人と街と音楽を愛して生きていきたい。



この作品は、「音楽文」の2021年9月・月間賞で入賞した千葉県・安藤エヌさん(29歳)による作品です。