「初めからずっと それほど強くなんてなかった」と歌うこの曲で、ほとんどこのライブがどのようなものになるのか、というか、現在のヤー・ヤー・ヤーズがどのような場所に立っているのかが、言い尽くされてしまったというのは結論を急ぎすぎだろうか。2000年に「最高のロック・バンドになる!」と決意して始まったヤー・ヤー・ヤーズ。そんなエネルギーを丸ごと放出させたファースト・アルバムは望外な成功を収め、次に待ち受けたのはセカンドの生みの苦しみ。この10年も終わろうかという昨年、ようやく3枚目のアルバムをリリースした彼女たちにとっての00年代とは、まさにそんなふうに、実は等身大の自分たちを確かめる歳月でもあった。エキセントリックで破天荒な新時代のフィーメイル・シンガーとして華々しく登場したカレンO、あるいは、00年代にあってパンキッシュでニュー・ウェイヴでテクニカルな希代のギタリストとして賞賛されたニック・ジナー。そんな2人がどのような場所にたどり着いたのか、その光景が『イッツ・ブリッツ』であり、その確信が、逆説的にこのバンドに真実のスケール感をもたらしたと思うのだ。
だから、このライブはデビュー時のJSBXもかくやといったソリッドなモダン・ブルーズ・ロック・ショウとはならなかった。そのようなロックの肉体性よりも、むしろメランコリックで思索的で陰影に富んだ選曲とパフォーマンスだった。もちろん、カレンOはあいかわらずステージ狭しと跳ね回り、ニックはいっときもギターを普通に構えることなくせわしなくポージングを繰り返す。けれど、最初の沸点を会場にもたらした「HEAD WILL ROLL」がそうであるように、その熱量はもはや無邪気なものではない。「死ぬまで踊ろう」というフレーズがシンボリックに表しているように、それは闇と直結し、どこか救われなさこそを伝えるのだ。
「PIN」で、カレンOはこの晩2回だけやってみせる「マイク喰い」を見せる。それにしても、なぜ彼女はマイクを「喰う」のだろうか?
セカンドからの「GOLD LION」などを交えながら、ひとつのハイライトとなったのが、「SKELETONS」。ここで、ステージ後方からバンドもろとも観客を見つめていた巨大な目玉オブジェがスタッフの手によってくるりと反転、ただの白い玉となる。そんな「抑圧」(?)から解き放たれた空間で、カレンOは「愛しいひとよ 泣かないで」と繰り返す。
これが、ヤー・ヤー・ヤーズのたどり着いた場所である。それは、たとえば一昨日、Girlsのクリストファー・オウエンスが「一生泣き続けてなんかいたくない」」と歌った場所でもある。それはどんな場所なのか。それは、その言葉の通り、あなたもわたしも泣いている場所である。そして、ロックのひとつの本質とは、そのような場所で、ただそう言うことしかできないというリアルに耐えることである。その場所での自分たちの弱さを(誰かからではなく!)自分たちで見つめることである。そこにしか、この弱いわれわれの強さはないと確信することである。
「SKELTONS」が終わると、例の白い玉は再び巨大な目玉に反転し、われわれを見下ろした。しかし、ここからなのだ、ここから新しい強靭さをたたえたヤー・ヤー・ヤーズが動き出すのだ。「ここは何ていう場所なのかしら」と歌う「SOFT SHOCK」、観客のひとりひとりに歌わせた「CHEATED HEARTS」を挟んで、「ZERO」へ! いくつもの巨大な目玉がステージのソデからフロアに投げ込まれる。オーディエンスが目玉どもをあっちこっちに跳ね上げる! なぜなら、わたしたちは「ゼロ」。取るに足らない存在。だからどうしたというのだ。そんな空虚なわれわれが抑圧を撥ね退ける光景が目の前で展開していく。Suedeだったらこれは「TRASH」だ。俺たちはクズだ。やることなすことすべてがどうしようもない……。
「追い越せ 追い越せ 勝者を」。「Y CONTROL」で本編が終了。アンコールは、スタッフらとともにJay Reatardに捧げられて「MAPS」。「やつらはわたしほど愛してくれなんかしない」。その通りだ。ラストは「DATE WITH THE NIGHT」。こんな夜を、いつもと変わらない夜を、しっかりと歩いていくのだ。カレンOはステージに仕掛けられた特効のスイッチを何度も踏んづける。そのたびに舞い上がる色とりどりの銀テープ。そして、羽織っていた布を頭からすっぽりとかぶり、その中でマイクを喰い始める。海老反って、ずっとずっと喰っている。
最後はマイクをステージに何度も何度も叩きつけて、ライブは終わった。カレンOは、カレンOにしかできない、口角がぐいっとあがった笑顔を満面にたたえながら去っていった。客電が点き、明るくなった足元を見ると、その銀テープはアルファベットの「Y」の文字に象られていた。最高のロック・バンドを観た。(宮嵜広司)