グリーン・デイ @ さいたまスーパーアリーナ

pic by Teppei
おそらくここ日本でのツアーがなければ、いまごろは例の「Hope For Haiti Now」の先頭に立って、そのキャンペーンをさらにドライヴさせていたであろうグリーン・デイ。しかし、たとえその場所に彼らはいなくとも、この夜さいたまスーパ-アリーナで起きたことは、音楽には何かが起こせるということを十二分に予感させたという意味において、同等の意義を果たせたと断言できる。2時間半の長丁場の後、2万に及ぶ群衆にこれだけのパワーを持ち帰らせることのできるライブ・アクトは、今、彼らをおいて他にない。

ソールド・アウトとなった本会場での初日。日曜日のこともあるので、セット・リストも詳細もふせておくが、とはいえ、基本的には誰もが期待するグリーン・デイの現在を、そのスケール感そのままに堂々と激しく眩しく表現しつくしたパフォーマンスだった。巨大なステージを大きく使った出し惜しみなしの特殊効果と、とにかくスキあらば始められる細かい客いじりといった、お金のかかることとかからないことをせわしなく、けれど隙間無く練り上げて洗練に達した演出は、彼らだけが成しえることのできるスペシャルなエンターテイメントだった。サックスなんか入ったひには、ほとんどEストリート・バンドだった。ひとつだけ。ステージには何人も観客は上げられていたが、ひとり、なかなかな熱唱で1曲を歌いきった彼のことだけは特筆しておきたい。凄かったです。

というわけで、ライブの内容を知りたくて読んでいただいている方には大変に申し訳ないのですが、ここでレポートは終了。ここからは、グリーン・デイってだからどうしてこんなライブをやるのかということを書いてみようと思う(ということを気づかされたのが、ほかならぬ今夜のライブだったので、これもまたライブレポートだということでご勘弁願いたい)。

グリーン・デイは、パンク・バンドだと言われる。その音楽スタイルやメッセージの発信スキームは、パンクのそれであるから、そのことに間違いないだろう。ただ、ここで行われているライブは、火の玉に火柱にと真っ赤な炎ががんがん燃え上がるわ、花火はだーだー降ってくるわ、爆音は何度も放たれるわ、これだけ書いているとほとんど品のないメタル・バンドである。そして、例の客いじりは、ひとりひとり細かくいじるだけでなく、ほぼすべての曲中で会場全体にコール&レスポンスを求める。それだけ書いていると、ほとんどラッパーである。しかし、驚くべきことに、そういう「演出」が絶え間なく繰り返されているこのステージに、ぎくしゃくとした違和感はゼロである。けれど、これは果たしてパンク・バンドのステージなのだろうか? その「差異」に、しかし、グリーン・デイの決定的な素晴らしさがある。

そもそもメジャー・デビュー・アルバム『ドゥーキー』は、いわゆるパンク・バンドから嫌われたアルバムだった。メガ・セールスを記録したことも加わって、グリーン・デイは当時のパンク・シーンからあまり好印象をもたれなかった。そのことが、少なからずバンドに贖罪意識を持たせたことは、当時のインタビューなどで振り返ることができる。グリーン・デイは、そのスタート時から、パンクでありながらパンクではないのではないか?という違和の渦中にあった。

そして一方、シーンはオルタナティヴへと加速していた。グランジ以降のロックは、単純なポップ・パンクを遠く引き離す、ヘヴィで複雑な音楽へと進行していた。『ドゥーキー』以降のグリーン・デイの苦闘は、そこに起因する。彼らのメロディックでシンプルなパンクは、重く、苦しい意匠をまとい、セールスは下降し、いつしかシーンの周縁へと彼らを追いやった。

起死回生となったのが、前作『アメリカン・イディオット』だったことは言うまでもない。組曲形式を発明したグリーン・デイは、一躍シーンのフロントに立ち、重要なロック・バンドとして蘇った……というのが、大急ぎで振り返る彼らの軌跡である。あるのだけど、今日のライブを観ていて、その理解は少し違うのではないかと思ったのだ。

『アメリカン・イディオット』でグリーン・デイは単純なポップ・パンクから進化を遂げ、新たな文学性とメッセージ性を獲得した。それが大方の論調だし、僕自身もそう思っていた。しかし、それは違っていた。その逆だった。『アメリカン・イディオット』で発明されたあの「組曲」。それは、彼らがより複雑で文学的なメッセージを伝えることのできるための装置としてあったというよりも、「よりわかりやすいことをよりダイレクトに」伝えるためのものとしてあったということだった。『21世紀のブレイクダウン』にしても、そこに描かれているのは決して高尚な純文学ではない。誰にでもわかる、初歩的な設定の物語なのだ。

つまり、『ドゥーキー』以降の葛藤を追求、昇華させた文学的表現としての「組曲」話法ではなく、むしろ、本来的なポップでシンプルな話法に立ち返り、その究極形として発明されたのがこの「組曲」だったのだ。

その効果のほどは、言うに及ばない。グリーン・デイは新たな普遍性を獲得し、現在地球上のいかなるバンドよりも巨大なシンガロングを受け取るバンドとなった。

そして、もうひとつ。今夜観ていて思ったのは、彼らはもうひとつ発明していたということ。それが、この「オーディエンス全面参加型ライブ」だ。とにかく客に参加させる。曲間だろうが曲中だろうが、観客に拍手、掛け声、ウェイブ、実際にステージに上げて歌わせる、ダイブさせる……とにかく、ありとあらゆることを観客にやらせる。ここまでくると、もう別個のものだ。これは発明と呼んでしまったほうがいい。

これは何なのか。これも、さきほどの「組曲」と基本的に考え方は同じである。彼らがどこまでもわかりやすくするために「組曲」を選んだのと同じように、つまり、音楽の主体を自分たちから聴き手側にシフトしたのと同じように、ライブにおいても主体はオーディエンスだとシフトしたのだ。そうでなければ、この飽くなき客いじりも、そして、もっと言えば、パンク・バンドとしては禁じ手とも言える過剰な特殊効果の演出も説明がつかない。

グリーン・デイにつきまとってきたパンク・バンドとしての「違和」。それは、言い換えれば、文学的なパンク・エリートと、どこまでも大衆的であろうとするグリーン・デイとの「差異」である。しかし、言うまでもなく革命は、民衆によって行われる。それがグリーン・デイの崇高なる矜持である。今夜のステージはなによりそのことを突きつけていたように思った。(宮嵜広司)