いまや現代ロックの不可避な震源地として名実ともに最重要レーベルのひとつに君臨する4AD。今回企画された、ブロンド・レッドヘッド、アリエル・ピンクス・ホーンテッド・グラフィティ、そしてディアハンターの3組が一堂に会するイベントは、現在のロック・ミュージックが一体どのような緊張感の渦中にあり、どのような可能性を提出しようとしているのかを示す、とても意義深いものになること必至なことは言うまでもないのだけど、そこからのスピン・オフとして、こうして単独公演が実現していることもまたうれしい(そして、そのほぼすべての公演がソールド・アウトになっていることも)。今夜はディアハンターのフロントマン、ブラッドフォード・コックスのソロ・ワーク、アトラス・サウンドが一連の公演の先陣を切って登場となった夜。
オープナーは、OGRE YOU ASSHOLE。こうしたアメリカン・インディー・シーンと、おそらくもっとも近い関係性を自然体で築き上げてきた日本が誇るオルタナティヴ・ロック・バンドである彼らは、昨年はWolf Paradeの全米ツアーに帯同、よりいっそう現在進行形のロック言語に精通した4人だ。ツイステッドなフレーズを多彩に繰り出すギターの馬渕、ボトムに硬質なグルーヴを埋めていくベースの平出、そうした弦楽器の奔放なうねりを背後から端正に締めるドラムの勝浦、そして、それら独特なサウンドを貫く、まるで一本のピアノ線のようにしなやかな歌声を響かせるボーカル出戸。40分強のセットでは、彼らの最初のシングル・ナンバー「タニシ」も披露されるなど、彼ら流に今夜のスペシャリティに応えた格好。OGRE YOU ASSHOLEは翌21日の名古屋ではディアハンターと、月を越えた2月には、MGMTの来日公演でもオープニングを務める。
さて、機材が片付けられ、ステージがすっかりガランとした空間になる。小さなアンプとマイク・スタンド。それが、ブラッドフォード・コックスのソロ、アトラス・サウンドの舞台だ。転換の作業がひと段落すると、ステージにスタッフが上がりアナウンス。「これからアトラス・サウンドのライブが始まりますが、ブラッドフォード・コックスからみなさんに一言あります。どうか、リラックスして楽しんでほしい、とのことです」。満員の観客から拍手。そして場内が暗転して、トレードマーク(?)な刈り上げながらボサッとした髪のまま、チェックのシャツの上に数十回は丸洗いしたみたいなセーター(トレーナー?)をざっくりと着たブラッドフォードが登場。この「部屋着」な感じ(失礼)が、このミュージシャンがどこから出来してきた存在なのかを端的に物語る。
「来てくれてありがとう。どう調子は?」と、客席を見渡し話しかけたブラッドフォード・コックスは、たしかにリラックスした雰囲気。けれど、抱えているギターの弦を弾き、フレーズを弾き、さらにコードを鳴らし、それらをループさせたほんの十数秒が経過すると、そこにはいままで聴いたことのない奥行きと広がりを持ったサウンド・スケープが突如として現出してしまった。す、す、す、凄い!!!!!!!
単音をループさせたリズム・トラックをベースに、あるときは下書きのようなデッサンの輪郭線が、あるときはまるで絵筆で足していく色の数々が、そんな、それだけでは成立しなさそうな音やフレーズがひとつひとつ重ねられていくことで音楽が目の前で生成していく。観客は、その様ごと体験させられていく。最初に重ねていた素材はいつしか消え、いつのまにか新しい素材がトラックの表情を変えてしまう。そんな曲ともノイズともつかないサウンドの連鎖が場内をさざ波のように覆っては引いていく。これは前回、ディアハンターとして来日した際、ミニ・セットで体験したかつてのアトラス・サウンドとも次元を異にするスケールだ。なんというスリル。なんという興奮。それは、「いままさに音の誕生に立ち会っている」という厳然とした事実がわれわれにもたらすスリルと興奮だ。
ブラッドフォード・コックスは、このアトラス・サウンドのことを、「ディアハンターではできないことをやる」ものだと説明しているそうだ。バンドと平行したソロ・ワークのことを、そう本人は位置づけている。そんな簡潔な説明で言い表そうとしたこのアトラス・サウンドとは、つまりどういうものなのだろうか。ディアハンターではない音、ということだろうか。ディアハンターとは違うコンセプト、ということだろうか。どちらも、そうだと思う。しかし、もっと本質的なことが、このアトラス・サウンドとディアハンターを分けているのではないか。
それは、つまり「ひとり」ということである。ソロなんだからなにを当たり前な、と思われたかもしれないが、そうなのである。「ひとりでやる」ということが、決定的に重要なこと。それがアトラス・サウンドなのだということを、この日のパフォーマンスはわれわれに突きつけていたのだ。
およそ20分以上も続けられた演奏が、ようやく鳴り止んだ(ついでに言っておくと、この日1時間15分行われたパフォーマンスで、音が途切れたのはこのたった1回だけだった)。目くるめく音の変遷は、すでに世界を1周してしまったように思えるほどの光景と物語を提出していた。そして、あらためて演奏し始めたのは、アルバム『ロゴス』に収録されている「WALKABOUT」だった。
ご承知のとおり、このナンバーは、アニマル・コレクティヴのメンバーであり、自身もパンダ・ベアーとしてソロ活動をしているノア・レノックスと共作した曲だ。アルバムの中でもとりわけ光に満ち、肯定的なエネルギーを放射していたこのトラックを、「ひとり」のブラッドフォード・コックスは、最初その曲とはわからなかったほど、まったく違う意匠のトラックへと一変させていた。ダークでディープでヘヴィなサウンドの曲へと移送していた。それは、つまり、「ひとり」の音楽として演奏されていたのだ。
この現代において、「ひとり」であること。あるいは、現代の音楽状況の中で、「ひとり」であろうとすること。それが意味するものについては、想像できるだろう。それは、「もっとも弱弱しい場所」としての「ひとり」である。あるいは、「もっとも本質的な個を問われる場所」としての「ひとり」である。なぜなら、この現代においてひとは(たとえそれが仮想であろうとも)容易にひととつながることができ、それにゆえに、「ひとり」であることの根源的な辛苦とそれゆえに獲得することのできる歓喜から疎外されているからだ。
だから、ブラッドフォード・コックスは、あえて、「ひとり」であることを自分に強いるのである。自分「ひとり」であることの有限と無限を引き受けようとするのである。そして、そんな過酷な世界との対峙からどのようなシンフォニーを奏でることができるのか、そのトライアルを実行するのである。
「SHELIA」はこんなふうに歌われる。「Shelia、一緒に、ひとりで、死のう」。そのような「ひとり」であるボクと、アナタはどのように向き合えるのか。ブラッドフォード・コックスが「ひとり」になるのは、ただ孤独に溺れたいからではない。そうではなくて、アナタとそんなふうに出会い、生きるためである。
その「SHELIA」で歌われるフレーズ、「alone」は、何度も繰り返し歌われた。この言葉を、ブラッドフォード・コックスは、何度も何度も繰り返した。その姿は、凄まじかった。
この夜、2度目の「音の途切れ」が訪れると、それが終わりだった。ブラッドフォード・コックスは微笑を浮かべて、みんなに手を振って、ステージ袖に小走りに帰っていった。(宮嵜広司)
ブラッドフォード・コックスによる手書きのセットリストはこちらのブログから。
http://ro69.jp/blog/miyazaki/46765
アトラス・サウンド @ 渋谷O-nest
2011.01.20