大人になったらイジメはないと思ってた - 何故ナツミの「あたしは無敵」が本当の居場所を教えてくれた

たぶん現実逃避しようとしていたんだと思う。
イジメをテーマにした何故ナツミの「あたしは無敵」という歌に出会ったのはそんな時だった。

いったい私が何をしたって?仕事をしに行くというより、生き地獄を味わいに行くと言ったほうがしっくりくる。

例えば「あたしは無敵」の歌詞にも出てくるような

“おはようの無視”
“上履きの中の画鋲”
“ビリビリの教科書”
“何もしてないのに冷たい視線”

そういったいわゆるイジメと呼ばれるものは学生時代までのものだと思っていた。当時の自分は加害者でも被害者でもなく、どちらにもつかない「見て見ぬふり」の立ち位置だった。周りの大人たちも気付かないふりをしていた記憶がある。私はそうしてイジメの恐さを知らないまま大人になった。

大人になった今、まさか自分がイジメを受けるだなんて思いもしなかった。子供のイジメと違い、大人のイジメはやり口が巧妙で陰湿でずいぶんとタチが悪いものだと思う。ここで完全に神経が参ってしまわなかったのは、たぶんこれまでの無駄な人生経験とか意地とかいうやつだ。焦らず冷静に、でも心の中では毎日ビクビクしながら出勤していた。

今日はどんな濡れ衣を着せられるだろう?またデマの噂を流されてしまうのではないか?報・連・相は黙殺、本当は仕事に行きたくない、逃げたい逃げたい逃げたい。

らせん状のように嫌な考えばかりが頭を駆け巡り、とうとう私はその日どうしようもなくなって早退した。でも帰宅する前に少しだけ一人になれる場所で風に当たりたい。幸い、会社の屋上は普段からひと気がなく、よっぽどの用事でもない限り誰かが上がってくることはない。

10階建てのビルから見下ろす街はにぎやかで、外回りに出る元気な営業マンやランチを買いに行くOL、カフェのテラスで打ち合わせをする後輩たち。まるで私が生きている世界とは別世界のようにきらきらと輝いて見えた。そっか、私、存在してなかったんだ、この世界で。いてもいなくても変わらない存在だったから、イジメなんてものを受けて、コミュニティーからはじき出されちゃったのかもしれない。

半ば自暴自棄になった気分で、手元のスマホを適当にいじりYouTubeで何となくランダムに曲を流していた。何も考えたくない時、私はたいていYouTubeを再生して偶然流れた音楽をBGMにただぼうっとしている。その日も、流れてきた歌詞の意味さえ気にせず聞き流して放心状態でいるつもりだった。

しかし、何故ナツミの「あたしは無敵」が流れてきた瞬間、思わず声に出して「え?何この歌。」と言ってしまったくらい衝撃的な歌詞が脳みそに直接入ってきた。

“屋上からぶっ飛ぶの”
“今から3、2、1で飛ぶから覚悟して見ていなよ”
“心はとっくに死んでいるから痛くない怖くない”

よくよく聴いてみると、まるで今の私の状況とリンクでもしているかのような内容だった。違う点といえば学生か社会人かということくらいだろう。何故ナツミというシンガーソングライターを知ったのはその時が初めてだった。本人の実体験と架空上で作り上げたこの歌は、イジメに立ち向かう女性の強さと弱さの葛藤を歌い上げた作品らしく、妙に描写がリアルで聴けば聴くほど自分の感情の振れ幅が嫌でも大きくなる。
ああ、今の私にはこの歌詞は一つ一つが鋭すぎる。

“屋上からぶっ飛べば この毎日だって終わるのに”

確かにそうだ。今この10階から飛び降りたら、明日のことを考えなくて済むし、つらい気持ちになることだってなくなるんだろうな。

“あたしはそんな勇気も出ずに眠剤を一気飲み”

私も同じだ。苦しい毎日を今すぐにだって終わらせたいのに飛び降りる勇気もない。夜は余計なことを考えなくて済むように薬に頼ってしまうところもなんだか似てる。

この歌の主人公もイジメを受けるようになってから丸ごと日常が変わってしまったみたいだ。自分に対する周囲の感情の予想はついているが嫌われていることを認めたくない、だけどどうにも出来ない無力な自分に対してひたすら腹立たしくなってくる。

これってさぁ、私のことだよね?私はさ、ただ普通に仕事をして、平和に一日を終わらせたいだけなの。なのにどうしてこんなことになっちゃったんだろう?まあ、自分にまったく非がないとは思ってないよ。仕事だって全力でやってた訳じゃない。本当の親友と呼べる人だっていないし、今まで人間関係を積極的に広げていこうともしなかった。でも、だけど…。たった4分にも満たない1曲の中で色んな感情が溢れ出し、しまいには罪悪感さえも感じてきてしまう。

感情をどこにぶつけていいかわからないけれど、正直この歌のラストが衝撃的すぎて、声にならない声をあげて泣いてしまった。こんなにも大声で泣きじゃくったのは何年ぶりだろう?家族と行ったスキー旅行で腕を大けがした時も、4年付き合った彼氏と別れた時でさえもここまで思いきり涙したことはなかったかもしれない。気持ち悪いけど気持ちがいい、壊れているようで壊れていない、バッドエンドかもしれないけどある意味ハッピーエンドでもある。そんな常識破りのドラスティックな展開に感情ごと惹き込まれる。

プツリ…と自分の中で何かが切れる音がした。

“死んでも私は生きている”
“お前らの脳裏に”

前代未聞の印象的なフレーズを遺して終わる問題作「あたしは無敵」のタイトルには、そういう意味が込められているのか…と深く考えさせられた。
だけど本当の問題はそこではない。この歌が本当に届けたかったものは、いつの間にか死人のように青白くなって毎日苦しみながらも生きる人たちへ向けた、人生のリセットボタンのようなものだと思う。

この場所(会社)で死んでも(辞めても)、私は(次の会社で)生きている。
大切な居場所を見つけて幸せに暮らす私の姿を、やつらの脳裏に一生刻むくらいの笑顔で見せつけてやるんだ…と。
そうだ、いつまでもずっとイジメに耐え続ける必要など最初からまったくなかったのだ。どうしてこんな簡単なことに気づけなかったのだろう?気づいてからは理解が早かった。まるで暗くて退屈な長編映画にようやく幕が下りたような…さっきまで張り詰めていた空気が嘘のように軽くなったような。手のわずかな震えさえも落ち着いていた。気持ちの整理がついてからは、自分でも驚くくらい「あたしは無敵」状態になっていたんだと思う。

まずは今の場所を抜け出して新しい道を進むこと。
辞める選択に対して周りは笑うかもしれない。だけどもう私の心はリセットボタンに手をかける決意を固く決めていた。だって歌詞にもあるじゃないか。

“どんな言葉も態度もどうでもいい あたしは無敵”
“あたしは不死身だって教えるから”

そして何故ナツミの「あたしは無敵」と偶然出会ったあの日から2か月が経った今。リセットボタンを押したことはやはり正解だったようだ。自分が心から笑顔になれる本当の居場所を見つけ、当時のことが夢だったかのように思えるくらい幸せな毎日を送っている。この歌に出会っていなかったら今頃どうなっていたか正直わからない。もし当時の私と同じ境遇の人がいるなら、何故ナツミの「あたしは無敵」は一度じっくり聴いてもらいたい。学生も社会人も、女性も男性も、イジメの被害者も加害者も、見て見ぬふりをする人も。聴く人によってきっと色んな角度から捉えることが出来るはずだ。

一人でも多くの人の心が救われますように。本当の居場所を見つけることが出来ますように。


この作品は、「音楽文」の2019年6月・入賞を受賞した東京都・大山ほのかさん(27歳)による作品です。