『 鏡と余白 』 - —ザ・クロマニヨンズの余白に写るもの—

 ザ・クロマニヨンズのデビューシングル「タリホー」は、ジャケットカバーに彼らのマスコットキャラクターである高橋ヨシオの顔が大きくデザインされている。また、実物を見るとわかるのだが、このジャケットはレコード・CDどちらも銀色の鏡面仕上げになっていて、手に取った自分の顔が高橋ヨシオに重なるように映るのだ。
 菅谷晋一氏によるこのジャケットデザインは、機知に富んだユニークなデザインであるということにとどまらず、クロマニヨンズの、ひいては甲本ヒロトと真島昌利の音楽を端的に表す象徴的なものであるといえる。
 そう、彼らの音楽とは鏡なのだ。

 「歌詞における直接的なメッセージを削ぎ落としていった」というセリフは、彼ら二人の音楽活動を語るときにおいて、今や使い古されたクリシェだ。確かに、「直接的」という形容詞をつけて考えるのならそれも一理ある。特に初期ハイロウズにおける過剰な言葉遊びのユーモアは、演奏にも楽曲にも横溢しており、そこに「直接的な」メッセージを見つけることは難しいだろう。
 しかし、もし「直接的でないものにはメッセージがない」と考えるのなら、それはこと芸術娯楽の分野においては致命的な誤謬である。もっと突き詰めれば「メッセージとは表現者から発せられるものである」という認識自体が誤解であるといってもいい。
 そもそも、音楽をはじめとするあらゆる表現活動に私たちが胸打たれるのは、そこに込められたメッセージそのものに感動したり共感したりするからなのだろうか。もしそうだとすれば、世の中に流れる音楽はすべからく政治的なものや、商業広告のような大衆的なもの、あるいは逆に私生活を事細かに暴露するような、ごく個人的なもので溢れかえってしまうはずだ。実際こうした、表現における説明あるいは私情の過剰な発露はどんな時代の芸術作品にも見られることではある。だがその一方で、世の中が決して意味や説明だけで動くものでないのは一体なぜなのか。

 それはつまるところ、私たちは目に見えるもの耳に聴こえるものを最終的には自分の心の中で処理しているからである。究極をいえば、その作品の素晴らしさに感動するということは、作品に対する自分の解釈に感動しているのだということだってできる。
 ジョン・レノンがベトナム戦争について歌うのを聴いて感銘を受けるのは、実際にベトナム戦争に参加したものだけではない。セックス・ピストルズが当時のサッチャー政権を揶揄した歌を歌うのに衝撃を受け、胸のすくような爽快感を覚えるのは当時を知るイギリス人だけではない。
 歌われている当事者でなくとも感動するのは、私たちが見聴きするものに対して想像力を働かせているからだ。当然その働きは受け手の能動性を必要とし、そこにそれぞれの解釈が完成する(「完成」という言葉を使うのは、それなしでは解釈は「未完成」だということの逆説でもある)。受け手の想像力は軽々と時空を超え、ひとつの作品が無限の意味を持つことを可能にする。したがって、批評という領域に踏み込まずとも、鑑賞の時点においてさえ受け手のもつ役割は非常に大きいのだ。

 最近テレビに出演した甲本が「意味を考えすぎる」昨今の傾向について示唆したのは、何も「歌詞は重要ではない」ということを言いたかったわけではないはずだ。歌詞は重要である。それは演奏やサウンドや、演奏者の熱量と同じくらいに重要だ。甲本が示唆したのは、「説明の横溢」による、受け手の表現者への依存と、その需要に対する、表現者による説明の供給過多のことではなかったか。それは言うまでもなく、芸術作品と芸術鑑賞の両方から想像力を奪い、単義的なもの、要するに「正解のあるもの」に変える。
 「泣きたいならこの曲」というセリフがよく聞かれるようになっているのは、ちょうど「頭痛がするならこの薬」という広告のように、ひとつの作品につきひとつの効能があり、それは万人に当てはまるのだと期待されていることの表れではないか。ひとりの人間の人生を変える可能性すら秘めているはずの「芸術の爆発」が、評論や説明という「正解」の「確認作業」にすり替えられつつあるということもできる。

 そのことに気づくとき、甲本ヒロトと真島昌利がこの35年腐心してきたのは、受け手の想像力を殺さないための「余白」をとっておくことだったということに思い当たる。そして、クロマニヨンズの最新作『MUD SHAKES』の「余白の多さ」——これは歌詞に限ったことではなく演奏やサウンドに関してもそうだ——は、驚愕にあたいするものがある。
 たとえば真島作の「VIVA! 自由!!」がそうだ。「自由は最高」というフレーズは、「ごもっとも」とうなずくしかないような簡潔で明瞭なものだが、何度もリフレインされるうちに全く別の意味を帯びてくる不思議さがある。2020年ほど誰もが「何だってできる」ことを尊いものであると痛感した年はなかった。一方で、「何だってできる」ことに対して「あたり前だろ」という態度をとることが、はたして常に肯定されることなのか、これほど疑問視された年もなかったといえる。私にはこの曲は「自由は最高なのか?」という問いかけにも聴こえる。
 「自由は最高」というフレーズだけを繰り返し、またそれ以上の説明や断定が一切されないことで、聴くものに幾通りもの解釈を可能にさせるのだ。
 
 一方、甲本作の「浅葱色」は、現代詩の言葉で短編小説を描くかのように、限られた言葉と抑制された演奏の中に熱量を封じ込め、聴くものをその場に引きずり込む世界観を持っている。浅葱色は武士の死装束の色としても知られるが、戦国武士ではない現代を生きる私たちの琴線をとらえて離さない何かがあるのは、彼らの楽曲の持つ余白の多さに根ざした懐の深さにこそ起因するといえる。
 また、余談だが今作においては「新オオカミロック」で、ギターとハーモニカで吠えてみせたり、「ふみきりうどん」のカウベルが踏切のサイレンを想起させたりと、歌詞を含めた「楽曲」と「演奏」の分かち難い相互作用が顕著である。

 では、こうした「余白」に受け手は何を見るのか。それは表現者ではなく受け手自身、すなわちほかならぬ自分自身である。「VIVA! 自由!!」が風刺に聴こえるのだとすれば、それは自分自身に社会風刺の精神が、潜在的にせよ顕在的にせよあるからだということに気づく。何しろ歌の中では「自由は最高」としか歌われていないのだから。
 そして「浅葱色」に「とける空」には、受け手の心象がそのまま投影される。それは、表現者と作品だけでは不完全な、受け手の想像力によって完成されるものである。だから、クロマニヨンズの楽曲にある余白は、受け手自身の心を写す鏡なのだ。

 「やる事は わかってる 立ち上がる 立ち上がる」(「ナンバーワン野郎!」)にせよ、「引き返す訳にゃいかないぜ 夢がオレたちを見張ってる」(「雷雨決行」)にせよ、彼らは「だから行こうぜ」とも「お前も立ち上がろうぜ」ともいわない。常に差し出すだけだ。それは演奏の熱を伴って受け手に伝わり、それぞれの心のなかで作用する。そのときはじめて、受け手のなかにだけメッセージが成立する。
 もしあなたが「やる事は わかってる」と歌う彼らの姿を見て、「立ち上がろう」と感動したのなら、その瞬間のあなた自身こそが「メッセージ」なのだ。
 
「あそこに月が光ってるよ」

「えっ、どこ?」

「ほら、あそこ!」

 と差し出した指こそが歌詞である、と彼らはいう。もし歌詞というものが「月を指し示す指」であるならば、彼らは「月を取ってここに持ってくることは決して出来ない」という指の不可能性を知っている。そしてそれ以上に「美しいものの在処を知らせる」という、指にしかできない役割を彼らはよく知っている。
 私たちは、その指だけを見ようとしているようでは、いつまで経っても月の美しさを知ることはできないのだ。


この作品は、「音楽文」の2021年1月・月間賞で最優秀賞を受賞した東京都・芦塚雅俊さん(33歳)による作品です。