現在発売中のロッキング・オン8月号では、映画『レッド・ツェッペリン:ビカミング』のロングレビューを掲載しています。
以下、本記事の冒頭部分より。
文=増田勇一
ドキュメンタリーとは事実を伝えるために作られるもの。それが作り話であってはならない。では、良質なドキュメンタリーを成立させるためには何が必要なのだろうか?
6月のある日、『レッド・ツェッペリン:ビカミング』の試写会に足を運んだ。事前にあまり資料を読まず、なるべく構えずに観ようと決めていた。というのも、自分の知らないことに向き合うことができるせっかくの機会だと思えたからだ。
1961年生まれの僕にとってレッド・ツェッペリンは、洋楽やロック全般に興味を持ち始めた少年期の頃から、すでに歴史を作った偉人たちとして崇められていた。ラジオから聞こえてくる3分間のわかりやすいポップソングにウキウキさせられていた中学生の頃、彼らの音楽は敷居が高いものに感じられた。なんとなく「わかってる人のためのもの」というイメージがあって、気安く聴こうとすることを許さない空気を感じさせられていたのだ。
もちろんそれは「なんとなく」でしかなく、それこそ学生服の袖丈が余っているような中学一年生にとって、校則スレスレの頭髪をしている三年生がちょっとした脅威だったりするのと似たような感覚だったようにも思う。そして当時の僕は、レッド・ツェッペリンをはじめとするロックの先駆者たちの音楽を「あとから聴けばいいものリスト」に入れておいた。いきなりその起源を遡ることよりも、今、目の前にあるヒットソングに触れるほうが楽しかったからだ。とはいえそれは、めんどくさそうな歴史の勉強を後回しにするための言い訳でもあった気がするが。
試写を観終えた時、これまで観てきた音楽映画とは何かが違う、と感じた。2時間前までは知らずにいた事実の数々をシャワーのように浴びせかけられたあとだっただけに、一気に自分の中に増えた情報を整理しきれない疲労感はあったが、知らなくていいことまで伝えられた時の胃もたれのような感覚とは違っていた。食べたくないものを一切、口にせずに済んでいたからかもしれない。
ロックの歴史が長くなるにつれ、その歴史を掘り下げ、伝説の裏側を探ろうとする映画が次々と生まれてきた。史料性の高いドキュメンタリーばかりではなく、事実に基づいた物語を俳優が演じる映画にも、たとえば主人公がサルだったりする『ベター・マン』(ロビー・ウィリアムスの半自伝的な作品)など、大胆な設定のものが登場するようになってきた。そうした作品の良さは、事実を基にしているからこそのリアリティと、創作であるがゆえのファンタジーが共存している点にあるといえる。(以下、本誌記事へ続く)
レッド・ツェッペリンの記事は、現在発売中の『ロッキング・オン』8月号に掲載中です。ご購入はお近くの書店または以下のリンク先より。
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