現在発売中のロッキング・オン12月号では、トッド・ラングレンのインタビューを掲載!
以下、本インタビューの冒頭部分より。
「『ハロー・イッツ・ミー(サムシング/エニシング?)』が出た時、言われる度にイラッとしたのが“キャロル・キングの男版”でさ。
彼女のことはソングライターとして評価してたけど、手本にしたことはなかったからね」
40年前、名うての天才少年であり、ひょろ長い神童だったトッドは、当時マスコミにもてはやされていたポップカルテット、ザ・ナッズを辞めた後の10年で、シンガーソングライター/プロデューサー/時にワンマンバンドとして、そのむき出しの野心と恐れを知らない折衷主義を詰め込んだアルバムを次々と世に送り出し、輝かしいキャリアを築き上げた。
彼は文字通り、見事なまでに全てをひとりでこなしていた。嘲るようにメタルのお株を奪ったかと思えば、極上の悲しいバラード曲で聴く者の心を溶かし、“伝えられずにいられない”のようなコンパクトなパワーポップの名曲の数々をいともたやすく紡ぎ出したかと思えば、“ザ・スパーク・オブ・ライフ”のようなシンセ系のインスト曲を同じくらいのペースで量産するのだ。コンピューターオタクのようでいながら不遜かつ傲慢で、70年代のどんなカルトヒーローにも勝るとも劣らない、限りなく天才に近い人物だった。
では一体、と諸君は問うだろう。何故TRは、例えばの話ザ・レインズボロウ(訳注:英国屈指の老舗名門5つ星ホテル)ではなく、ホリデイ・インに滞在しているのか? さて、そこに至るには頑なな迎合拒否と、明らかな自己破壊行為の長い物語があった――だがその物語は、実は彼自身の主義や思想とは一切無関係なのだ。彼にとって業界のゲームに与しないことは、グランド・ファンク・レイルロードの数々のヒットレコードのプロデュース業に代表される、雇われガンマンとしての仕事でたいそう実入りが良かったことに起因した、意識的な行動原理による選択だったのである。
とりわけ金庫を潤してくれたのはミートローフだったが、彼はその金を70年代末に湯水の如く――まだMTVも誕生していなかった時代に――ビデオスタジオに注ぎ込み、今や『地獄のロック・ライダー』の成功を示すものは殆ど残っていないと言う。彼は昔から一貫して、自らの利益を害するほどに時代を先取りし過ぎているのだ。
(以下、本誌記事へ続く)
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