【座談会】2025年の洋楽ポップシーンはどこへ向かうのか? 「POP NOW 2025」特集で読み解く最新動向


2025年のポップシーンで、いま何が起きているのか? 編集長の山崎洋一郎、ライターのつやちゃん、木津毅、伏見瞬が今のポップシーンについて、それぞれの視点で徹底討論した座談会をお届けします。(rockin’on 2025年7月号掲載)




山崎 「それではまず、今年のポップシーンに対する雑感をひとりずつお願いします」

つやちゃん 「僕はまず2010年代後半で起きたふたつの大きなものが、今も続いて拡大してきていると思ってます。ひとつがジャンルシームレス。2010年代末に音楽が国境もジャンルも越え始めて、それがさらに広がって前提になったと。もうひとつがファンダムですね。SNSの浸透の影響もあると思うんですけど、どのポップアーティストもファンダムがベースになって、それが一個一個の大きな感情共同体を持つ時代になってきていると思います。そのなかで、エモいって言葉が流行していたこともあるように、感情がますます大事なものとして、ポップミュージックの中心に再配置されるようになってきている気がします。で、そうなると、どんどんボーカルパフォーマンスが中心に置かれるようになった気がしていて。それがポップミュージックど真ん中のアーティストだけじゃなく、周辺のR&Bとかメタルとかヒップホップとか、いろんなジャンルに広がった傾向があると思います。だから、歌がうまいだけではなく、どう感情の機微を表すかで差がつくような時代になってきている気がしますね」

伏見 「今の感情っていう話でいくと、2010年代ですごく象徴的なアーティストがテイラー・スウィフトとビリー・アイリッシュだと思っています。テイラー・スウィフトって感情をムーブさせるストーリーテリングと声によって大スターになっていきましたよね。で、オリヴィア・ロドリゴをはじめ影響力も凄まじいものがあった。で、ビリー・アイリッシュは一般的な歌のうまさを除いたうえで成功した、声の人だと思うんです。一般的なっていうのは、高声が出るとか、声量が多いとか、昔だったらマライア・キャリーとかセリーヌ・ディオンとか、歌がうまいディーバがすごく人気だったと思うんですけど。ビリー・アイリッシュは、むしろ声量も抑えるし、高い声でも歌わない。でも囁くような歌声に感情をムーブさせる歌唱力がある。今まで言われていなかった『声』っていうものに特化したことでスターになった人、と言えると思うんですよね。声と物語が、恐らくこの15年ですごく評価の対象になった感じはします」

木津 「フィメールポップミュージックは自分の恋愛沙汰とかをネタにしているじゃないかって軽視されてきた部分があると思うんですけど、テイラー・スウィフトがそれを変えた。自分にまつわるゴシップもある種のストーリーテリングによってアート的なものへと変えたことが、20世紀のロック的言説に対する批評として機能した部分があったと思いますね。あと、ジャンルミックスについては僕も同じことを思っていて、ジャンルが特定されないことによって、重視されるのが感情と、本人のキャラクターだと思うんです。2025年のポップミュージックはその一貫するキャラクターをどういうふうに表現するかみたいなところがあって。そこが今のポップミュージックの面白さであると同時に、すごくヒリヒリしたところだなって思っています」 

つやちゃん 「今ふたつ出たボーカルの重要性と、本人のキャラクターって、結構ヒップホップそのものだなって思いました。ヒップホップはずっとそれをやってきているじゃないですか。ラップやフロウのバリエーションを競うっていう。ポップミュージックにおけるヒップホップの勢いは、最近落ち着いた感はありますけど、2010年代後半から試された、フロウのバリエーションや、どうキャラとして売っていくかみたいなものが、ここに来てポップミュージックのなかで再利用されている気がしています。そういう意味では、ヒップホップの勢いは衰えたかもしれないけど、今になってポップミュージック自体に、すごく影響を与えている気がしますね」

伏見 「僕もロック的な何かが、ある種ヒップホップに取って代わられたと思うんですよね。それは社会に対するアンチテーゼかもしれないけども、そのなかでキャラクターを切り売りする、ゴシップ性みたいなものの価値転換がヒップホップで起きて、そのあとに出てきたのが、今のポップだと思うんですよ。そう考えると雑談めいているけど、昔のロックでもオアシスぐらいまでの人たちはキャラ立ちしていたなって、パッと浮かびましたね(笑)」 

木津 「それこそビートルズだってクラプトンだって、ゴシップ性を語られていましたよね。作品のなかにゴシップも入っていて、それは20世紀ロック的には、ロックの神話みたいな感じになっていたけど」

つやちゃん 「ただテイラーとか、ポップアーティストのツアーの経済効果がひとつの国の国家予算規模になってきているわけじゃないですか。っていうときに、そのストーリーと感情をひとりの人間が背負えるような規模を完全に超えているわけで。だからこそ、そこで疲弊したマインドをまた曲に還元して、ファンダムのなかで考察だったりが始まってっていうサイクルが、スピーディーに巨大化していますよね。その構造自体もそうだし、そこに立っているひとりのポップアーティスト自身が、かなり心配になってくる(笑)。ほんとに大丈夫なんだろうか?っていう」

山崎 「でも、個人の気持ちや出来事を切り売りしていって、それがポップミュージックとしてリアリティショー的に流通する。それによって個人が追い立てられ、追い込まれていく。それを『しんどそうだな』って見る時代が、もう終わったんじゃないかなって気がする。今の人は、それ、当たり前のことじゃん?って」

木津 「これがデフォルトだから」

山崎 「そうそう。だから今のポップスターは、リリースタイミングも早いし、どんどん新曲出すし。で、アルバム出すっていっても20何曲も入っているじゃないですか。その表現方法が完全にデフォルトになっているんじゃないかとは思うんですけどね。だから、実は今のアーティストは、自分のファンダムしか見ないぐらいの開き直りで、そこに常に発信していく。僕らが想像しているようなストレスとか追い込まれる感覚は、実はないんじゃないかな」

つやちゃん 「逆にそれを楽しめるぐらいのキャラクターが、ポップアーティストの条件かもしれないですね」

山崎 「そうですね。あとは、以前に比べて今のポップシーンってファンダムの世界じゃないですか。『ポップミュージックが好き!』って人はいなくて、それぞれのファンダムがあるっていう。ファンダムについてはどう考えていますか?」

伏見 「ファンダムというと批判されがちだし、画一的だと思われていますけど、最近自分がYouTubeをやっていて、そのなかにも多様性があるんだと気づきました。たとえば、チャペル・ローンのファンが必ずしもクィアなわけではなくて、年齢層だって、50代、60代の人が聴いていてもおかしくない。20代のクィアとか、フェミニズムと親和性の高い音楽を聴いているんじゃないかなってなんとなく思うんだけど、実はそうではないんじゃないかなって。ファンダムが画一的で、ファンとアーティストの関係性だけで終わっちゃうってよく言われていますけど、果たしてそんな簡単なものなんだろうか?とは思います。実際はファンダムとアーティストの関係も、各アーティストによって全然違う感じがするし、トキシックかどうかっていうのは、各アーティストによって異なっていると。アメリカがしんどいのは、多分そこに政治性というか、白黒つける性分がのってきてしまって、チャペル・ローンは『民主党なのか共和党なのか、どっちなんだ』ってことになるから、みたいな話だと思うんですけど。なんか重たい話になりそうだな(笑)」 

木津 「話を聞いてて、伏見さんが去年のブラット・サマーをどう総括しているのかが気になります。ていうのも、ブラット・サマーはチャーリーxcxが『ブラット』っていう、ある種スタイルをぶち上げたんだけど、そのスタイルがなんなのかよくわからないところがポイントだと思っていて。ブラット・サマーってファンダムの、たとえばチャペル・ローンのファンならこういうものが好きだよねっていう、イメージが固まりかけていたものをかき乱すムーブメントだったんじゃないかなって思っているところがあるんですよ」 

伏見 「『ブラット』が、まだ僕のなかで言説化できないんですけど、ブラット・サマーのムーブメントのなかには、ポップの今の状況を否定するわけではないんだけども、それを何か捻じ曲げるような力があった感じがしています。それがなんなのかっていうのは言えないんだけど、そこに対しては肯定的な気持ちになりましたね。今、ポピュリズムが広がりきったあとで、排他的なものも含んだ、どういうカルチャーを、どうやって作ればいいかっていうことの、ひとつのヒントになったのが『ブラット』だったのではないかと感じています」

山崎 「それはあのアルバムの何に感じたんですか?」

伏見 「音もそうだし、全体的な、打ち出していたコンセプト性ですかね。ジャケットにしても、『どの色がいちばん不快か』ってアンケートを取って、敢えてあの黄緑色を選んだんですよね。とはいえ曲はキャッチーだし、ジャケットもインパクトはあるんだけど、そのなかに不快さみたいなものを入れている。それは恐らく、サウンドもそうだし、ミュージックビデオやビジュアル面全体に言えると思っていて、たとえば“360”ではトレーニングマシーンの上で揺れているとか。“Guess”も、ビリーがブルドーザーで家に突っ込むとか。不快な暴力性を少しずつ入れている。だけど、全体的にはキャッチーでインパクトがある。



あと『ブラット』というかチャーリーxcxの大ヒットが特異だったのは、あまり物語がないですよね。『ブラット』に辿り着くまでの物語が、そんなに共有されているとは思えない。あるいは、複数の物語があると思うんですよね。たとえばハイパーポップの文脈で、あのアルバムを語ることもできるし。もうひとつはコロナ後のクラブミュージックの復活の喜びみたいなものを『ブラット』から受け取ることもできる。とはいえ、クラブミュージックみたいなロングセットとはまったく別の、ポップとしか言いようがない安っぽさみたいなものを受け取ることもできるし。そのあとでロードとチャーリーの不仲を回収する物語も派生したりとか、ひとつの物語に回収されない、複数のストーリーを用意するっていうのをチャーリーはやっていたと思います。キャラクター消費みたいなものに対する批評だったのかなっていう気がするんですよね。それが見事に成功していると思いました」

木津 「排他的なところと開かれたところが両立していて、だからこそファンダムの濃度が濃くなっていくようなところがあると思うんですよね。チャーリーの『ブラット』ってアルバムが、今のポップシーンそのものに対するある種の批評になっていたなって思いました」

伏見 「コーチェラでも、レディー・ガガが彼女にしかできないゴテゴテしたというか、とにかくすべての曲にお金をかけて、これを毎年やることは誰もできないみたいなものを実行しているなかで、チャーリーが何もないステージで踊りまくって、画面で文字をバッって出すだけ!みたいな簡素な、原始的な、金をかけないスタイルで勝負してきたのは、すごく象徴的だったと思います」

つやちゃん 「以前だったらインディからメジャーへっていう成長モデルがあったじゃないですか。今そのモデルが、自立的で内向きなインディシーンと、いかに巨大資本をかけてグローバルに仕掛けていくかっていうポップシーンとで完全に二極化していて。その行き来が難しくなったときに、インディの今の価値って、ポップシーンだったり、ポップアーティストだったりをどう批評していくかっていうところにあると思うんですよね。その関係性が強まっているし、今後肥大化していくであろうポップシーン、ポップアーティストに対して、どう批評的な視点を持てるかっていう。そこでインディの人たちは勝負していくでしょうし、その関係性はかなり重要になってくると思うんですよ。そう考えると『ブラット』って、すごく大きい規模のインディペンデントをやってるような見え方があって、特異な気がするんですよね。二極化したポップとインディを、インディの視点に立ちながらポップを、自分もポップなんだけどポップ全体を批評していくみたいな。それをとても大きい規模で、グローバルでやっていくっていう。そういう意味で他とは違うし、ブラット・サマーには可能性を感じますね。なんであんなに売れたか、わかってはいないんですけど(笑)」

山崎 「チャーリーのファンダムが、あんなに巨大なホームがあったわけではなくて。現象として起きたわけですよね?」

伏見 「そうですね。結果、チャーリーがめちゃくちゃ大スターになったのとは違う感覚があって、サブリナ・カーペンターのブレイクとはまた違う気がするし、やはり特殊性は感じますね」

山崎 「今の状況って、各アーティストのファンダムが蛸壺のように形成されて、とにかく推し活をする、っていうファンダムが並列するような状態で、そこには批評性が希薄になっていくんじゃないかって危惧があるんだけど。でも、結局ユーザーからすると、その蛸壺に入って出てこれなくなっているわけではないんですよね。今のこの情報の在り方を見てると、ある蛸壺に入りながら、他の蛸壺とも通じているみたいな。ひとつのアーティストの蛸壺に入りながら、あらゆる情報を取捨選択したりしていて。だから、排他性みたいな形での拒絶はないんだけど、どれを選ぶかっていう瞬時の判断で、ユーザー個々人はみんなそれなりの批評をやっていると思うんですよね。ただ、チャーリーは個々人の批評性に任せるんじゃなくって、アーティストとして表舞台でバーンと批評性を打ち出したってことですよね。だから、これからもそういう才能を持ったアーティストが、1年に1回なのか2年に1回なのか、ちゃんと出てきて、蛸壺的な状況のなかで批評性をバーンと発揮してくれることが起きますよ、きっと。通気口というか、換気みたいな感じで(笑)」

伏見 「そうなんですよね。しかも今は全体が見えちゃってるからそう感じるだけで、昔からファンダムの存在というのはそういうものだった気がします。でもかつては、情報も限られていたから、全体が見えていませんでしたけど」


山崎 「あと、ここ数年は女性アーティストが圧倒的に強いじゃないですか。これに関しては皆さんどのように思っていますか」

伏見 「女性アーティストが強いっていうことにすごく関わっていると思うんですけど、最近ダンスをひとつの武器にしているアーティストが少なくなったなって思うんですよね。たとえば80年代のスターって、マイケル・ジャクソンにしろ、プリンスにしろ、曲もすごくいいし歌もうまいんだけど、ダンスができるってことがめちゃめちゃ大きかったと思うんですよ。でもここ10年ぐらいの男性のポップスター、たとえばザ・ウィークエンドとか、ドレイクとかはダンスで魅力を放つ人ではなくって。そこが、男性ポップミュージシャンの強い人が出てこなかった理由のひとつなのかなって。ダンスは英語/日本語みたいな言語の壁を超えて、ユニバーサルランゲージになると思うんですけど、それが、最近の欧米中心の男性ポップミュージシャンにはあまりなかった要素なんじゃないかなって思っていて」 

山崎 「それによって、いわゆる物語や感情を歌う女性アーティストのシェアが増えたと」 

伏見 「増えたと思います。昔から女性アーティストはシンガーとしての実力というか、声が強い人が売れている印象があったんですよね。で、男性はダンスができる人がスターになった。僕、ヒップホップの人に、なんで超ダンスがうまいスターが出てこないんだろうって思ってたんですよ。K-POPでもアメリカでもそうだと思うんですけど、大きい事務所が主導して、オーディションしてやりますみたいなのは多いけど、それを自分たちでやるみたいなグループが出てきたらめっちゃアツいなって思っていますね」

つやちゃん 「それはいわゆる、作られたエンタメっていうよりは、ポップミュージックの世界において、アーティストの日常の生活とか親密さみたいなものをいかに伝えるかっていうトレンドがずーっと続いているからじゃないですかね。作られたもの、いわゆるパフォーマンスみたいなものにリアリティを感じないというか。そういう時代にどんどんなっているんでしょうね。K-POPみたいに、エンタメとして『こういうものです』って作るものはあると思うんですけど。とはいえ、ダンスグループはK-POP以外だとFLOぐらいですよね」

伏見 「そこはアメリカとアジアの違いって感じもしますね。アジアだとダンスグループ、ボーイズもガールズもめちゃくちゃいるし、めちゃくちゃ強いけど、アメリカやイギリスにはいないですよね。そこは面白いですね」

つやちゃん 「しかもK-POPも、最近のBLACKPINKのソロの動きとか見てると、いわゆる集団的なパフォーマンスから、アメリカ的なソロスター像にシフトしている気がするので。あの辺も潮目が変わってきているような、K-POPの全体の盛り上がりも落ち着いてきていますし。あの辺も、グローバルでのアジアのポップミュージックも、潮目が変わってきている感じはしますね」

木津 「僕はシンプルに、2010年代の第4波フェミニズムがあったときに、Z世代以降がデフォルトになって、その感覚をパーソナルに表現できるのが女性アーティストに多いことが大きいんじゃないかって思います。そうなったときにチャペル・ローンが、あれだけレズビアンの性愛や恋愛、ロマンスを赤裸々に歌うのは新しいんですよね。アンダーグラウンドでクィアな表現っていうのは、もちろんたくさんあったんだけど、あそこまでポップなものとして、メインストリームでぶち上げるのは、なかなかなかったので。ただ一方で、新たな男性性もポップシーンで生まれていると思っていて。実はテディ・スウィムズの大ヒットって、結構重要だと思っているんですよ。テディ・スゥイムズの“Lose Control”ってレトロソウルで、ある意味すごく安全なポップスじゃないですか。ただ、昔のマッチョな男性みたいなオラオラ感はあまりなくて、歌っている内容も失恋で。


ベンソン・ブーンのヒットを見ても、新しい世代の男性像が出てきているし、必ずしも女性アーティストのものすごい天下ってことではない。ブロカントリーもある種の保守的な男性像を追っているんだけど、モーガン・ウォーレンとかも含めてちょっと時代に合わせてアジャストされている男性アーティストが出てきているのも、ここ数年の大きい特徴っていう気もしています」

伏見 「テディ・スウィムズは面白いですよね。あんなに見た目がいかつくて、声もソウルフルで太いけど、歌詞はほとんどウィーザーみたいですもんね(笑)。《お願いだ、僕のそばにいてよ》っていう、ほんとに情けない歌詞を書いていて。その辺は、今木津さんが言ったようなマスキュリニティの再定義なのか、今まで見えなかった部分を表していて。その辺って少しずつ変わってきている感じはしますね。僕はコーチェラでベンソン・ブーンのセットでブライアン・メイが出てきて“ボヘミアン・ラプソディ”をやっていたのが、めちゃくちゃ面白かったです」

つやちゃん 「ベンソン・ブーンの来日公演、すごかったですよ。筋肉大会でした。あ、これがまたアリになってるんだっていうのが衝撃的で」

山崎 「たとえばベンソン・ブーンの場合は、どう再定義されているんですか?」

木津 「共感性みたいなことですかね。ドレイクとカニエ・ウェストが弱さをさらけ出すとか、泣いてしまう俺っていうのをやっていたけど、やっぱりそこはナルシスティックだったっていうことが、今言われているんですよね。それに比べてベンソン・ブーンの世代は共感性がベースになっているっていちばん言われていますね。男性の弱さを、“他の男性アーティストとは違う俺”ではなく、ポップとして、共感性でリスナーと繋がっていくっていうのが、わりと男性像としても新しいって言われています」

山崎 「なるほどね。じゃあ男性アーティストも新たに再定義されつつ」

木津 「真新しくはないけれども、微調整されて売れている感じがしますね」

山崎 「でも確かに、新しい男性性って表現として確立するのは、それなりにちゃんと才能のある人が時間をかけてやらないと、なかなか大変なことですよね」

木津 「そうですね。クィアポップって話になったときに、どうしてもアメリカだと文化戦争の話になってしまうところもありますしね。男性性が必ずしも保守と結びつくのではなく、ふわっと着地させているところが今っぽいなって思います。そこは僕は、わりとポジティブに捉えていますね」

山崎 「なるほどね。70年代のマッチョなロックバンドに象徴されるような古い男性性は遠い昔の話ですね。だからといって90年代も00年代で新しい男性性が表現されたわけでもなく、せいぜいボサボサした感じでバンドやる、みたいな消極性でしか表現されていなかったけど。でも今の男性アーティストは、そういうところをちゃんとやろうとしているのかもしれないですね」

木津 「そうですね。且つ、そこまで政治化されていない、もっと自然な感じで、それを表現しているのがいいなって思います」 

山崎 「あとは、これはアメリカに限られているけど、ポップシーンにおけるカントリーの復権ぶりについてはどうですか?」

木津 「僕は去年の年末座談会で話した通りで、ちょっと後ろ向きなところが大きいかなって思っているので。難しいなって。アメリカっていうものが、すごく内向きになっているものの象徴のひとつだと思います。とはいえ、それこそシャブージーみたいな、そこからさらにオルタナティブなものをやりつつ、しかもメジャーでも存在感がある人も出てきているので、カントリーに関してはそっちに期待したい感じですね」

山崎 「じゃあ、やっぱり保守化っていうふうにざっくり見ている感じですね?」

木津 「そうですね、全体としては」

山崎 「これを『再定義なんだ』って見ている人はいない?」

伏見&つやちゃん 「んー」

伏見 「再定義ではないんだけども、やっぱり今までアメリカがカントリーの国だったよねっていうことでもない気がして。ずっとカントリーってあるんだけども、それがこんなにポップチャートにのってくるのは、ちょっと異様だと思うんですよね」

山崎 「そうなんですよね」

伏見 「それをどう捉えればいいのかっていうのは、難しいところだなって思っていて。ひとつは、アメリカがこのままポップの中心に居るのかどうかっていうことをすごく考えますね。とはいえ、他に何があるんだっていうのもわからないっていうのが現状で。チャーリーがイギリス人っていうのも考えれば、もう一回イギリスが来るっていうのもあり得ない話ではないけども、でも、ほんとにそうなのか?って疑わしい。中心地がわからない、っていう状況を表しているように僕には感じ取れるんですよね」


つやちゃん 「最近ラテンはやっぱり面白いなって思ってますけどね。新作を出したカリ・ウチスとかカミラ・カベロとか、ラテンとアメリカンポップの境界をなくしていくようなことにトライしているじゃないですか。それって、アメリカンポップをラテン側から再定義していることでもあるし、ラテンの音楽を世界中に広げている意味でもあるし。で、バッド・バニーとかロザリアとか、売れているんだけど、貧困や自国の社会的不平等とか、社会的なことをラテンの人たちってちゃんと歌ってヒットさせているのは、すごくいいなって思っています。ラテンミュージックは、ここ数年、すごくポジティブに自分は見ていますね。日本でなかなか売れないですけど」

伏見 「日本の歌謡曲とかJ-POPって、ラテンの要素めっちゃ強いんですけどね。それが共有されないのはもどかしい感じがする。あとは、今日名前出てない人だと、テイト・マクレーはカナダ人だし。タイラもいるし。あのあたりの新しく出てきたミュージシャンが、ことごとくアメリカ出身ではないのはひとつ新しい」

つやちゃん 「ふたりともダンサーで異色ですよね。最近では珍しいタイプというか。そういう人たちが出てきているのが面白い」

伏見 「そうそう。これって新しい流れなんじゃないかなって感じがする。テイト・マクレーの表現とかめちゃくちゃ挑戦的で、そんな感じでいいんだっていう。それは2010年代の第4波フェミニズムのなかでは現れなかった表現が、女性からも出てきている感じがする」

木津 「それはサブリナ・カーペンターもですよね。でもこうやって話していると、全体として傾向があるっていうよりは、いろんなところでいろんなことが起こっている感じもしますね」

山崎 「2025年のビルボードのチャートとかランキングを見ていると、実は面白い時期なんじゃないかなって思っています。ひとつは確かに、チャーリーみたいなアーティストがリセットしてくれた部分もあるし。あとやっぱり、数年前まではヒップホップ勢がチャートをかなり席巻していたから、ポップミュージックに何が起きているのか見えづらかったけど、ヒップホップがヒューッってどいたから、見えやすくなったと思いますね」

木津 「あと、2年前ぐらいだとテイラーがひとり勝ちで強すぎたところもあったので、その次の世代がいろんなところで、それぞれやりたいことをやっている感じがしますね」

山崎 「日本のアーティストとかでも、ジャパニーズカルチャーがどうとか、海外進出がどうとか、そういう話題は関係なく、ある日突然ビルボードのチャートのベスト5に居座る楽曲が現れるみたいなことが起きても、全然不思議じゃないぐらいの状況になっている」

伏見 「そうですよね。今、覆面メタル文脈のバンド、スリープ・トークンがやたら売れているのと同じように、いきなり日本のアーティストが急に売れる、みたいなことは、多分起こるんじゃないんですかね」

山崎 「あとローラ・ヤングみたいなアーティストも入りやすくなってるよね」

木津 「ローラ・ヤングに関しては、エイミー・ワインハウスの再評価だと思っています。やっぱり、エイミー・ワインハウスってゴシップでマスメディアに潰された人なので。2020年代から見ると、むしろゴシップのネタにされるような個人のことは、表現の必然じゃないですか。若い人たちは、今のポプティミズムを理解していて、逆説的にエイミー・ワインハウスの音楽的な再評価が起きているので」 

山崎 「テイラー・スウィフト全盛期とかヒップホップ全盛期だったら、エイミー・ワインハウス再評価どころじゃないですもんね。入る余地がなかったそういうアーティストが入って、いい意味ですごく流動的になっている」

伏見「エイミー・ワインハウスはInstagram世代の前の人というか。ダメージを感じてしまったゆえに亡くなってしまった人ですよね。だから、彼女ひとりじゃないけど、そういうことが起きてしまったうえで、じゃあどうやって生き残りながら音楽を作り続けていくかっていうのを、そのあとの世代がやってきたのかなって思いましたね」

山崎 「じゃあ、最近の一枚、もしくは一曲を出していただいて終わりましょうか。木津さんからどうですか?」

木津 「僕はチャペル・ローンの“The Giver”で。去年のちょっと追い詰められていたように見えていた彼女がカントリーポップをやることを引き受けつつ、でも曲の仕上がりとしては、ちゃんと楽しいものになっているところが、今の時代を象徴している感じがします」


山崎 「つやちゃん、どうですか?」

つやちゃん 「ドーチーのアルバムですかね。ああいう、ちょっと批評視点を持った人がメジャーで売れるんだっていうことにびっくりしました。捻った視点がすごく独特で、コラボレーションも面白いです」


山崎 「伏見さん、どうですか?」

伏見 「僕はカリ・ウチスの『Sincerely,』で。5枚目の作品で、ある種ラテンとアメリカを行き来するR&Bシンガーみたいなイメージが固まったなかで、このノスタルジックなアメリカンミュージックの再定義をやったことに面白さを感じますね」


山崎 「僕は、グレイシー・エイブラムスです。最初偏見で、またテイラーの二番煎じみたいなのが出てきたなって斜めから見ていたんだけど、アルバムを聴くとめちゃくちゃクオリティ高くて、本物だなって。女性アーティストが、才能と肉体性だけでストレートにやれる時代がほんとに来たんだなって、このアルバムを聴いて思いました」


つやちゃん 「この前の来日公演では、まさにそこに女性のファンがめちゃくちゃ惚れているというか、惹かれてるんだなっていうのが出ていましたね。すっごい盛り上がりで、あのピュア性に惹かれているのが伝わってきました」

伏見 「結局、全員女性を挙げるっていう」

山崎 「確かに!(笑)」

つやちゃん 「やっぱそうなんだ(笑)」





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