麻生太郎にとって「予算」とは

民主党が行っている例の「事業仕分け」を評して、前総理の麻生太郎が「公開処刑だ」と言い放った。
この「事業仕分け」は各省の概算要求を民間人の識者を交えた民主党政権サイドが判定、無駄がある場合は差し戻すもので、一般の傍聴やネットでも中継されていることでも話題になっているものだ。
この作業の何を指して「処刑」などという言葉を使っているのか、
例によって麻生太郎の言葉なので常人には理解の及ばぬところでもあるが、
察するにそれはあまりにむごたらしく見せしめ的な行為であると言いたいのだろう。

あらためて思うのだけど、彼ら官僚が提案し要求している予算は、われわれの税金の使い道である。
そして、それがどう使われるかは彼ら「官僚の」ではなく「われわれの」利益に服するものである。
だから、あの場で予算要求が通ろうが通るまいが、
彼ら官僚の利益が損なわれるわけでも、ましてや命の絶たれるようなことでは決してない。

彼ら官僚がああいう場で場合によっては面罵され、主張が押し戻されている光景を見て、
麻生は「彼らが可哀相だ」と思ったのだろう。だからそれを「処刑」と呼んだのだろう。
繰り返して言うが、そんなことはない。もっと言えば、彼ら官僚も仕事をしているだけなのだ。
それを、間違って見えてしまう麻生太郎は、つまり、「予算とは官僚のものである」という考えの持ち主だったということである。
ちなみに麻生はその言葉に続けて、「国会議員でもない民間人が何の資格でやっているのか疑問だ」と続けている。
これまたあらためて言っておくと、「予算」はその「民間人」のためのものである。