【コラム】チバユウスケの詩集『モア・ビート』を読んだ――詞世界に存在する「ビートニク」に酔う


『チバユウスケ詩集 ビート』が発売されたのは2008年11月。The Birthdayを結成して3年ほどが経過した頃のことだった。THEE MICHELLE GUN ELEPHANT時代からThe Birthday結成後の作品、さらにROSSOやMidnight Bankrobbersでの曲など、約15年分の作品の中からチバ本人が気に入っている詞を中心にセレクトして纏められた詩集である。その第2集となる『モア・ビート』が、2015年9月に発売された。前作から約7年ぶり、今回は、The Birthdayの2008年のミニアルバム『MOTEL RADIO SiXTY SIX』から2015年のシングル『MOTHER』収録曲まで、そして、SNAKE ON THE BEACH、The Golden Wet Fingers名義の作品も含め、チバの手による全81曲の詞が並ぶ。チバユウスケの詞に、音楽としてではなく詞として触れてみると、時に楽曲として耳にした時以上に感情を揺さぶる言葉に出会うことがあるから不思議だ。詩集を出すミュージシャンは珍しくないが、それが純粋に詞として(例えばその楽曲を聴いたことがない人が読んだとして)、心に響くものになっている例は意外に少ないと思う。じっと、その詞を読み込んでいくと、チバの描く詞の世界は、メロディに乗せて楽曲を完成させるためのものであると同時に、それ自体がすでに独立した作品足り得るのである。

詩集のタイトルからしても自覚的なように、チバの詞の世界は、「ビートニク(ビート)」のイメージで語られることが多い。こうして「詩集」という形で読み進めると、その印象はより色濃くなる。ビートとは、1950年代アメリカに起こったムーヴメントであり、ジャック・ケルアックやアレン・ギンズバーグ、ウィリアム・S・バロウズ等の文学作品に代表されるように、既存社会の価値観に対するアンチテーゼを表現した作品や、その時代の社会制度からあえてドロップアウトして生活していた者たちのことを指す。チバユウスケの歌詞にビートニクを感じるのは、やはり「アウトローとして生きることを“自ら選んだ”者」が持つ逞しさや美しさ、一方ではそれゆえの脆さや悲しさをも孕んでいるからではないかと思う。自分の人生を誰かに委ねたりはしない、くだらない世界に押しつぶされるくらいなら喜んで道を踏み外してやる。だけど、そういうふうにしか生きられないからこそ抱えるブルースがある。時折、チバが歌う曲にどうしようもなく泣かされてしまう理由のひとつは、アウトローが抱える憂鬱に心を重ねてしまうからだと思う(アウトローとして生きる覚悟さえ持てずにいる自分だからなおさら)。この詩集のあとがきに書かれた「いつだって俺たちは 過去を理解していなきゃいけないし 今を生きなきゃいけないし 未来を見なきゃいけない」というチバの言葉は、とても深い。

前作『ビート』もそうだったけれど、『モア・ビート』でも、掲載された詞の後にそれぞれチバの一言コメントが添えられていて、そのコメントが微笑ましかったり、切なかったり、とても興味深い。短い言葉なのに、このコメントがさらに詞の世界や解釈を広げてくれるのだ。例えば、“愛でぬりつぶせ”には、「グチってばっかいるパンクスはたぶん俺自身のことだ。」とか(コメント無しの詞も6篇あって、コメントがついていないということの意味も考えてしまうのだけど)。そして前作同様、今回もまた裏表紙に記された詞を見逃さないように。“夏の終わりに”というタイトルで綴られた散文詩。日常を切り取っただけの何気ない詞なのに、なんだかまた泣きそうになってしまうのだ。(杉浦美恵)