日本一謎のない政治家は小沢だ


容疑者の移送に一般客の迷惑もかえりみず修羅もかくやと殺到するマスコミの様子を見て、
あるいは、何も情報がないことはわかっているにもかかわらず警察署の前に仲良く張り付くマスコミの様子を見て、
つくづくこの業界は横並びで無駄なことをやっているなと思う。
あれはもう、ひとりの容疑者がどうとかいうことではなくて、
単に「こんなにオレたちが集まっていることがこの事件の大きさを表している!」という、どこに向けられているのかもよくわからない「主張」以上の何も感じない。

そんなマスコミの「あさって感」は、こと政治の世界でもまま見受けられることだ。
政治報道は、基本的に「誰某は誰某と最近つるんでいる」とか「誰某があの重鎮からホサれた」といったことに終始している。
あるいは、「何々委員会、冒頭から紛糾」といった見出しが、時の政権の運営能力の低さを指し示すことはあっても、
それが国民からしてみたらごくごく普通な「ちゃんと喧々諤々の議論をやってほしい」といった期待とリンクされることは少ないのである。
むしろ、シャンシャン会議であることのほうが問題であるにもかかわらず。

前置きが長くなった。
こうしたマスコミの「常道」と政治報道の「あさって感」がもっとも際立っているのが、
小沢一郎、である。
この政治家については、つねに「裏」とか「陰」といった言葉が冠させられている。
民主党の幹事長として記者クラブ以外のメディアにもオープンにした会見をほぼ週一で開いているにもかかわらず、
その行動はいつも闇につつまれ、陰謀が働いているらしい。

本当にそうなのだろうか。
人はよく、その対象の立っている場所が自分の見知らぬところにある場合、「わからない」と言う。
その意味で、小沢一郎という政治家は、彼らのよく知るところの「政治家の行動原理」から外れている、ということなのだろう。
でもそれは、彼の足跡や、インタビューなどを読めば一目瞭然である。
たとえば、大下英治が今年の2月に本人(当時は民主党代表)に取材したものを読むと(『民主党政権』収録)、
小沢はこんなふうに言っている。
「自民党は、良くも悪くも日本的な政党だから、そういう政党があってもいい。まったくなくなっては困る。もし自民党の次の世代が駄目なら、ぼくが新しい自民党を育てるようにするさ。そうでなければ二大政党制にならないからね」

これほど簡潔に、「小沢一郎」を表している言葉はないと思う。
彼の行動原理が読めない(普通の政治家と違う)のは、それが求めているものの違いに由来し、
彼の行動の不屈さは、その思いの破格さ(この口ぶりだと将来、本当に自民党を立て直さないとも限らない)に起因しているのだ。

別に同情するわけではないし(僕なんかがしてもしょうがないし)、
本人の常日頃の「言葉の足りなさ」にも理由はあるにしても、
小沢の不幸は、そのようなことが見えないことにされているマスコミの態度にある。
「小沢、早くも参院選に向けて地方に潜伏!」とか、
選挙に責任を持つ幹事長なんだから当たり前だろうと思う。