昨年リリースしたファースト・アルバム『ドグレル』が絶賛され俄に注目されたアイルランド/ダブリンの5人組の2作目。ガール・バンド、マーダー・キャピタルなど、ダブリンはサウス・ロンドンに続くポスト・パンクの発火点として耳目を集めているが、なかでもフォンテインズD.C.に寄せられる期待度は際だって大きい。今年はフジロックの出演も決まり、その真価を確認する絶好の機会だったが、残念ながら来日はお預け。その代わり、前作より大きな変化/進化/深化を遂げ、スケールアップした新作を届けてくれた。聴けば聴くほど奥行きの深さにハマっていく。これはそんな作品だ。
バンドは2020年2月の『ドグレル』ツアー終了後、すぐにスタジオに入り、4月には本作を完成させた。つまり本作はコロナ危機が全世界を浸食するさなかに作られている。初の大がかりなワールド・ツアー終了直後の制作ということで、当然その経験が活かされてもいるだろう。プロデュースは前作同様ダン・キャリー(ブラック・ミディなど)が務めた。
前作から本作へのサウンド上の顕著な変化と言えば、切っ先の鋭い鋭角的なギター・ロックから、より内省的でエモーショナルな一面が前景化していること。前作が荒々しく攻撃的な、いかにもポスト・パンク的な作風だったのに対して、よりサイケデリックなサウンドと、屈折した内向性が打ち出されているのだ。ものすごく単純化して言えば、前作がギャング・オブ・フォーなら今作はジョイ・ディヴィジョンだ。カメレオンズやサッド・ラヴァーズ&ジャイアンツのような80年代UKの叙情的ネオ・サイケデリックを思わせる曲もある。しかしそうでありながら、その奥に隠しきれない苛立ちや憤りなど攻撃性が潜んでいる。本作の制作にあたってスーサイド、ビーチ・ボーイズ、レナード・コーエンといった古典から、ビーチ・ハウスやブロードキャストといった2000年代以降のドリーム・ポップ〜サイケ・ポップまで、思索的なシンガー・ソングライターからサイケデリックで密室性の強いロックまで、幅広くインスパイアされたというが、そうした影響がサウンド面でよくあらわれている。またコロナ禍のさなかに作られたことも関係しているかもしれない。先の見えない不透明な未来への危機感と真綿で首を絞められるような閉塞感が、ここでは通奏低音のように鳴っている。もともと詩へのこだわりが強いメンバーが集まっているということだが、そうした文学的な香りも魅力のひとつと言えるだろう。『ヒーローの死』というタイトルは、アイルランドの国民的作家ブレンダン・ビーアンの演劇作品の一節からインスパイアされたとのこと。そんな姿勢に、ザ・フォール=マーク・E・スミスから受け継いだ伝統が息付いている。
だがそれでもなお、ここでのフォンテインズD.C.のサウンドはどこまでも肉体的でありオーガニックであり、生身の人間同士が切磋琢磨しながら音を響かせているという確かな手応えと気持ちのいい解放感がある。この強靱なバンド・サウンドは、イヤフォンというより、スピーカーで空気を震わせながら大音量で聴くべきだ。内省的で叙情的であっても、そこは前作と変わらない。いやむしろ、そうした感触は、メタリックでマシーナリーな印象もあった前作よりも強い、とさえ言える。
聴いた限りはスタジオにメンバーが集まり演奏し録音するという、昔ながらのバンド・レコーディングで作られているようだ。演奏する手つきや息づかい、スタジオの空気感まで伝わってくる。バンド作品と言いながら、実態はソングライターがひとり宅録でトラックを作り、メンバーはそれをライブでなぞるだけ、というのが最近の傾向であり、コロナ以降集まってのレコーディングがやりにくくなった状況下ではさらに加速していると思われるが、フォンテインズD.C.はあえてそうした風潮に抗っているかのようにも思える。
彼らのライブ映像を観ると、音源以上に強力で鋭いエネルギーを発している。ライブこそが自分たちの本領だという思いは強いだろう。1年もの世界ツアーを成功させ勢い込んでレコーディングに入った途端の、今の状況。ライブができない、ツアーもできない、という悔しさは強いはず。だがそんななか、文学的な契機をもったリリックをいかにもロック・バンドらしいロック・バンドの音に乗せて差し出してきた。これがオレたちの表現なのだ、と。画期的に新しいことをやっているわけじゃないが、それでいて新鮮に聞こえるのは、力づくではなく、知恵とアイディアとセンスで目の前のバリケードを破壊していくような、そんな爽快感があるから。それこそが現代ロックの魅力なのだ。 (小野島大)
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