クリックひとつで遥か彼方の天体からDNAの塩基配列までを知ることができる時代に、美や幸福の価値が意味するものはなんだろう。我々は、巧みに利用された美や幸福の価値が、容易く我々を支配してしまう現実にも既に気づいている。神話や偶像崇拝が衝き崩される時のように、美や幸福の価値は情報の濁流の中で日々激しく揺らいでいるのだ。昨年のクリスマスイブに“Cuz I”という1曲でシーンに登場した謎のアーティスト＝Siipは、美や幸福の価値が激しく揺らぐ時に、その瀬戸際で葛藤しながら闘うように音楽を鳴らした使徒だった。Siipは音楽の美を疑い、人間の幸福を疑い、それでも何かを強く信じようとしている。ポップミュージックの「新しさ」という価値基準さえ疑うSiipは、宗教音楽の中に脈々と受け継がれてきたエネルギーから最新テクノロジーまでを総動員させて音楽を奏で、歌うのである。ラグナロク（終末の日）へと向かう戦乱と宴の日々を歌い上げた“Walhalla”は、まるで今日を生きる我々の物語だ。この1stアルバムは、苦しみ足掻き、嘆き叫ぶような、生まれたての神話である。（小池宏和）

『ROCKIN'ON JAPAN』12月号より