【知りたい】ブリトニー・スピアーズ、完全復活。鮮烈なデビューからの変遷をたどる
2017.06.01 19:25
「LIVE IN CONCERT」と題したツアーを引っ提げて6年ぶりの海外ツアーに乗り出し、今週末には15年ぶりの来日を果たすブリトニー・スピアーズ。
今やベテランの域に差しかかってきてもいるし、事実、今回のツアーのもとになっているラスべガスでの定期公演「ピース・オブ・ミー」は、数あるラスべガスでの公演の中でも最高峰と称され、史上最も成功した公演のひとつともされている。
しかし、一時はゴシップ・ニュースばかりを賑わせた時期もあり、お騒がせタレントして姿を消していった印象も否めない。
それだけに実は今回の世界ツアー(現時点ではアジアのみだが拡大していく予定だという)はブリトニーの本格的な復活を祝う記念碑的なものでもあるし、その復活を育くんでアメリカのショービジネス界で文句なしの評価を勝ち取ることになったラスべガスでの「ピース・オブ・ミー」公演は自身のキャリアを完全に立て直していくあまりにも重要な試みだったのだ。
16歳、“…Baby One More Time”でのデビューの背景とは
もともとブリトニーは16歳の時のデビュー・シングル“…Baby One More Time”でセールス100万枚越えをいきなり記録してスターへと駆け上ったことから、業界で作られたシンデレラ・ストーリー的なイメージが強いが、実際のブリトニーは幼少期からショービジネス界入りを目指していた筋金入りのパフォーマー少女だった。
10歳前後の頃にはニューヨークでブロードウェイ・ミュージカルへの出演を果たしながら、クリスティーナ・アギレラ、ジャスティン・ティンバーレイクらとともに若年タレントの登龍門ともいわれたテレビ番組「ミッキーマウス・クラブ」へも出演していた。
番組の放送終了後には地元ミシシッピ州に戻り、アーティストとしての契約やデビューの機会をうかがっていた。
知人を通してデモを制作してはレーベルに売り込んでいくうちにア・トライブ・コールド・クエストなどを擁していたヒップホップの名門レーベルで、90年代末からはバックストリート・ボーイズやイン・シンクなどのポップ・アーティストを打ち出していたジャイヴ・レコードとの契約にありつくことになり、バックストリート・ボーイズとイン・シンクのヒット曲を生み出していたプロデューサー陣のデニス・ポップやマックス・マーティンらが活動するスウェーデンへと送り込まれることになった。
ここでマックス・マーティンからブリトニーに託されたのが“…Baby One More Time”だ。もともとはTLCのために書いた曲だったものの、オフに入るからと断られてしまった曲だった。TLCのための曲だったということを考えればマックス・マーティンとしてはかなりの必殺曲のつもりだったはずだし、この曲にありついたというのはやはりブリトニーにとっても限りなく幸運なことだったはずだ。
しかし、ビデオについてはありきたりなアニメを流用したコメディものにするはずだったのだが、女子校という設定でへそ出しの制服でのダンス・シーンを打ち出すというコンセプトを発案したのはブリトニー自身だった。
この曲を驚異的なヒットへと導いたのはこのブリトニーのアイディアによるものだったと言っても過言ではないのだ。
ある意味で、ブリトニーの画期性は“…Baby One More Time”の中にすべて結晶化されている。
つまり、80年代後半からポップ・ミュージックとR&Bはいずれもヒップホップの台頭に飲み込まれてしまい、ある時点からヒップホップ的な感性を持ち合わせていないと時代遅れなものとなってしまったのだが、実は白人女子のポップ・パフォーマーでそうした感性をごく自然に持ち合わせているのはブリトニーが初めてだったと言っても良い。
ダンス・ミュージックやR&Bと地続きな歌と踊りをごく自然に披露できるという意味ではマドンナ以来の存在だったし、80年代と90年代に育ったダンスとヒップホップ好きの子供としてのそのセンスは、明らかにマドンナよりもジャネット・ジャクソンに近い感性を持ち合わせていたのだ。
実際、ブリトニー自身もジャイヴ・レコードと契約してマックス・マーティンらの楽曲を託されるまでは、シェリル・クロウ的なシンガー・ソングライター路線を自分のキャリアとして漠然と考えていたというのだから、ある意味では予想もしなった路線に踏み出すことになったのだろう。
しかし、"…Baby One More Time"はブリトニーが潜在的に持っていた、同時代的な資質と音楽的才能を一気に爆発させることになったのだ。
ティーン・アイドルから女性パフォーマーへ
その後は2000年のセカンド『ウップス!…アイ・ディド・イット・アゲイン』と2001年のサード『ブリトニー』の両アルバムで名実ともにポップ・スターダムに君臨することになり、特に『ブリトニー』では、ティーン・アイドルから成長した女性パフォーマーへ、という移行も見事に乗り越えてみせていった。
この時期のブリトニーのセールスはたとえば『ウップス!…アイ・ディド・イット・アゲイン』の初週についてはアデルの『25』(2015)まで打ち破られることのなかった記録を樹立したほどのもので、まさにブリトニーは世界的な現象となっていった。
さらに最近でもテイラー・スウィフトやケイティ・ペリーらとコラボレーションし、いまだトップ・プロデューサーとして活躍するマックス・マーティンの評価についても、この時期のブリトニーとの活動によって確立されたものでもあった。
ゴシップ・クイーンからの脱却、ダンス・ポップ・アーティストとしての再臨へ
その後、ブリトニーは2003年に『イン・ザ・ゾーン』をリリースし、よりダンス・シーンを意識したアーティスティックな作風へと向かう一方で、唐突な結婚や離婚を繰り返すなど奇行が度々報じられるようになり、薬物依存症のリハビリも受けるようになる。
2007年の『ブラックアウト』をリリースした後は、自宅で警察に逮捕され、精神鑑定を受けた後に成年後見制度を受けることになったものの、その後のマネージャーの献身的な努力により、生活にも落ち着きを取り戻すようになった。
そして次回作として制作された2008年の『サーカス』で、ブリトニーはよりポップな路線へと軌道修正し、『ブリトニー』以来作業を共にしていなかったマックス・マーティンとも再コラボレート、さらに2011年の『ファム・ファタール』ではコンテンポラリーなダンス・ポップ・アーティストとしての定評を完全に築き直すことに成功した。
その後はブラック・アイド・ピーズのウィル・アイ・アムをメイン・プロデューサーに迎えた2013年の『ブリトニー・ジーン』、そして近年では最も評価の高い『グローリー』を2016年にリリースしている。
その一方で、ここ数年のブリトニーの評価をなによりも上げてきたのは、2013年からラスべガスで上演している定期ライブ公演、「ピース・オブ・ミー」だ。
この公演は言うなればブリトニーのすべてが詰まったショーであり、地元の「ザ・ラスべガス・レビュー・ジャーナル」紙からは、2015年度の最高峰のショーに贈られるベスト・オブ・ラスべガス賞を贈られることになった。
ブリトニーはこれを機に海外公演も考えるようになり、このショーを海外へ持っていくというコンセプトで、今のところアジア・ツアーとイスラエル公演が明らかにされている。
その記念すべき世界ツアー最初のライブとなるのが、6月3日からの日本公演なのだ。(高見展)