『OK コンピューター OKNOTOK 1997 - 2017』と1997年の『OK コンピューター』がどう違って聴こえるかについて考えた

『OK コンピューター OKNOTOK 1997 - 2017』と1997年の『OK コンピューター』がどう違って聴こえるかについて考えた
個人的に、これまで聴いてきたアルバムの中で最も自分の頭の中で細部まで再生できると感じるアルバムは、16歳のときに出会ったニルヴァーナの『ネヴァーマインド』と19歳のときに出会ったレディオヘッドの『OK コンピューター』である。
なぜ、この2枚なのかというと、どちらも自分がこの世界に対して抱いていた「絶望」に形を与えてくれたアルバムだからだ。
これらのアルバムによってこの世界に「絶望」を感じたのではない。
『ネヴァーマインド』がナイフのように脳皮に消えない傷として刻みつけて形を与えてくれた「絶望」。
『OK コンピューター』が、さらにその傷に無数の色彩と動きを加えて意思を持つモーショングラフィックスのような形を与えてくれた「絶望」。
それは、もともと自分が持っていた世界に対する違和感や拒絶や怒りや哀しみの正体を余すことなく教えてくれるものだった。
『ネヴァーマインド』と『OK コンピューター』が描く「絶望」の中にだけ真実があるように10代後半の自分は感じたのである。
倒錯した言い方になるけれど、それはむしろ僕にとって「希望」になった。

そして僕は、この2つのアルバムに出会って以降の方が、肯定的なメッセージを持つ音楽や映画を好むようになったと思う。
一生懸命になれるものを見つけて打ち込んだり、人を愛したり、家族を持ったり、社会の一員としての責任を引き受けたりできる人間になったのも、自分の中に揺るがない真実としての「絶望」を、頭の中のいつでも再生できるところに置いておくことができたからではないかとも思っている。

だからこそ2017年、『OK コンピューター』というアルバムを聴いたのは本当に久しぶりだった。
『OK コンピューター OKNOTOK 1997 - 2017』DISC-1のリマスター音源は、1997年当時の音を今、聴くよりもむしろ自分の記憶の中で生きてきた『OK コンピューター』に近いように感じた。
そして20年の時を経てこのアルバムが伝えるメッセージは、恐怖が恐怖の種を蒔き繁殖していく状況が加速し、複雑化している今の世界情勢の中で真実味を増しているとも感じた。
一方でDISC-2の収録曲、特に『ザ・ベンズ』と『OK コンピューター』の間の時期にライブで演奏されながら今回、初めて音源化されることになった“アイ・プロミス”“マン・オブ・ウォー”“リフト”を聴いて、これらの曲は『OK コンピューター』が1997年当時に伝えようとした「絶望」の輪郭をできる限りヴィヴィッドに伝えるために敢えて外されたのではないかと思った。
そして今、この3曲(特に“リフト”)は、『OK コンピューター』というアルバムが「絶望」の作品だったからこそ、そのリリース以降の20年にもたらした「救済」の要素を、まるで予言のように象徴している。
それは『OK コンピューター』が自分の人生に与えてくれたものにも重なるし、『OK コンピューター OKNOTOK 1997 – 2017』という作品として今、世に出される意義そのものである。

『OK コンピューター OKNOTOK 1997 - 2017』が1997年の『OK コンピューター』とどう違って聴こえるかーーその答えは、揺るがない真実としての「絶望」を、頭の中のいつでも再生できるところに置きながら、より「絶望」の色を濃くするこの世界で、今日と言う《君の残りの人生の最初の日》を生きることに「希望」を持てとはっきり語りかけるようになったことだ。

《だから元気出せよ、坊や》(“リフト”)
『OK コンピューター OKNOTOK 1997 - 2017』は、20年の時を背負いながら2017年の世界にそう語りかけている。(古河晋)
公式SNSアカウントをフォローする

最新ブログ

フォローする