『旋律の王女』(1973年)
「神よ、女王にご加護を! 新たなる勇者の登場」このアルバムはまさしく女王のごとく神々しくも気品に満ち、なおかつ猛々しく聴くものを打ちひしぐ。そうであっても苦しくはないどころか、甘美な気持ちにさえ浸れる。こんな気持ちになるのもまさに「運命的」な彼らとの出会いに端を発する。『戦慄の王女(原題 : Queen)』の発売は今から45年前の1973年初夏のこと。その年の夏8月に初めて訪れたロンドンの街。迷い込んだソーホーあたりのレコード店でアルバム発売ポスターだったかで見かけたのが聞いたこともない名前の新人バンド。その名も「QUEEN」。いかにも英国的ではないか。
怪しい英語で店員に尋ねた。「レコードある?」。店員は「今はない」と。ないなら仕方ない。
帰国して当時出入りの音楽誌の編集部で「クイーンって知ってますか?」とか「何か情報ありますか?」とかひとりで大騒ぎ。まだ日本では誰も何も知らない時期だった。
動いたのはその年末。一緒に英国に行ったレコード会社勤めの友人から連絡があり「大貫くんが騒いでたバンドがうちの会社の扱いでしかも担当が俺なんだけど、来たばかりの音源聴いてみる?」。すぐさま試聴室で初の対面。そしてすぐに直感した。「ワオ〜〜! ! こりゃ思った以上だ。スゲーぜ」。アルバムの解説をやらせてもらい、さらに有頂天。
その頃から徐々に情報が集まり、誌面に反映されだすと、すぐに反応ありで若い女性を中心にファンが急激に大増殖。「ビートルズ以来の大フィーバー」と言われるほどの大騒動に。日本での発売は1974年3月。洋楽王者のパープルやツェッペリンを押しのけて74年はクイーンの年となった。フィルム・コンサートをやればクイーンだけで超満員に。スクリーンに向かって声援が飛び交う。それがライブで実証されたのが75年4月の初来日、武道館公演。日本の洋楽史に新たな歴史の1ページが刻まれた瞬間だ。
それもこれもロンドンの片隅での一方的な出会いから始まった。サウンド、演奏、歌、曲どれもがデビュー・アルバムと思えない一流以上の出来栄え。特に心奪われたのが曲想と表現力。場面転換のキレが圧巻でさらに緩急自在のプレイでドラマチックに物語が展開する。儚さと剛毅さとが3Dでバーチャルに描かれたストーリーには今なお心打ちひしがれ陶然となる。(大貫憲章)
『クイーン II』(1974年)
「最高傑作は底なしの美しさを主張する!」クイーンの大傑作アルバム。当時のブリティッシュ・ロックが内包していた、ありとあらゆる知的要素を摘出して、それを独特とも言える重層的なサウンドの中に流し込んでいる。グラム、プログレ、ハード・ロック、ポップ、ロックンロール等々、時代のロックを大胆な手法で縮図の如く描き、それを「未来型」で語った偉大さは、未だに色褪せることはない。あのミック・ロックが撮影したアートワークは、アイコンとしての象徴となった。その象徴は、数年後、“ボヘミアン・ラプソディ”のミュージック・フィルムでモチーフとして再使用されることになる。
74年春、僕がDJをしていた新宿のロック喫茶に、4人の男子高校生がやって来て、買ってきたばかりの輸入盤を取り出した。何と4人が手にしていたのは同じアルバム。日本に入荷したばかりの本作の英国盤であった。実は、日本におけるクイーンの初期ファンは、高校生を主軸とする男性たちで占められていたのである。レッド・ツェッペリンらの大活躍でシーンが耕され、グラム・ロックの強烈なスウィング感で時代が撹拌された後、クイーンは全く新しいセンスを持ったハード・ロック・バンドとして登場した。劇的な展開が繰り返されていくサウンド。全編に気品がみなぎり、予定的調和を拒みながら、次元を超越した美しさへと突入していくプレイ。変幻自在の表現力の中に聴き手を呑み込んでいく、フレディ・マーキュリーの感情の爆発。デビュー・アルバムの衝撃には、実はその先があったことを知ることになる。
「このアルバムではシンセサイザーは使われていません」というクレジットが躍ったことも話題になった。彼らはロンドンのトライデント・スタジオと契約しており、故に最先端のスタジオ技術を駆使して徹底的にサウンドを磨いた。多重録音で壮大さを際立たせた発想はプログレ的ではあるが、ブライアン・メイの巧みなギター・オーケストレーションの働きによって、革新的なハード・ロックの世界観をも取り入れることに成功した。A面を「ホワイト・サイド」、B面を「ブラック・サイド」と命名し、まるでコンセプト・アルバムであるかの如く幻惑しながら、彼らは聴き手のイマジネーションを激しく刺激していった。この底なしの美しさは、あっという間に女性ファン層を開拓することになる。(伊藤政則)
『シアー・ハート・アタック』(1974年)
「初期クイーンの華やかな集大成」初期クイーンの最高傑作は『II』だと思うが、後のクイーンの方向性や音楽性の変化、その成長度も含めて考えると、本作が彼らにとってメルクマールとなった最重要作品と考えていいと思う。全米チャート12位と後の世界的成功への伏線となったという意味でも、そして個人的にクイーン開眼のきっかけとなったという意味でも、本作は忘れがたい。
一聴して気づくのは、全英シングル・チャート2位と大ヒットした“キラー・クイーン”を始め、キャッチーなポップ・ソングが多く収められていること。低予算制作ゆえ音質が最悪でバンドのダイナミズムが捉え切れてないファーストや、やや大仰さも目立ったセカンドに対して、アレンジがよく整理され、音像もクリアで見晴らしが良く、楽曲の良さも際だって、コンパクトにまとまったロックンロール・アルバムとして実にクオリティが高い。
前作のラストから続く遊園地のSEに導かれて始まる冒頭の“ブライトン・ロック”の津軽三味線みたいなギターからして既にクイーン節全開だが、彼らの特質をよく表しているのが“ナウ・アイム・ヒア”。元はシンプルなチャック・ベリー・スタイルのオールドスクールなロックンロールを、飛び道具的に凝ったギター・ワークや派手なコーラスで、まったく違う感覚の未来的なロックに仕上げているのが、当時としては非常に新鮮で画期的だった。
前2作で打ち出された新時代のハード・ロッカーとしての彼らは“ストーン・コールド・クレイジー”のような曲に受け継がれている。後にメタリカがこの曲をいかにもヘヴィ・メタルの最高峰らしくストイックにカバーしていたが、やはり「アァ、アァ」という派手なファルセットのコーラスがないとクイーンの曲らしくないのである。どんなにハードな曲をやってもマッチョにならない彼らの資質がよく表れている。
さらに彼らの音楽性の幅広さが表れているのが“リロイ・ブラウン”で、いかにもフレディ好みらしい、ルイ・ジョーダンを思わせるラグタイム/ボードビル/オールド・ジャズな曲を、さまざまなアイディアを惜しげもなく盛り込んだ超高速アレンジで2分ちょっとの短い曲にまとめてしまうセンスの良さと鮮やかな手際には感嘆。この曲で得た手応えが、次作以降のクイーンの飛躍に直結しているはず。(小野島大)
『オペラ座の夜』(1975年)
「劣化いっさい無し、ロック史に刻まれた美しさに酔う」クイーンの最高作にして、『サージェント・ペパーズ』と並べて語られるロック史に燦然と輝く傑作だ。絶頂期にあったクリエイティビティとそれぞれの際立ったキャラクターを楽曲に結実させ、巧みに構成することで究極的な完成度にしている。
そのトータリティがコンセプト主導や思いつきではなく、それまで作り上げてきた作品の集大成的なものであるから、これほどの説得力を持っているのだ。彼らはデビュー作でツェッペリンの系譜に連なる正統的なハード・ロック継承者の側面を見せつけた後、セカンド以降でイエス等のプログレ・バンドに通じるスタジオワークの冴えを聴かせつつ、極めて高いポップ性も備えていることも“キラー・クイーン”の大ヒットで証明してきた。そうした要素をすべて盛り込んだのがこの75年11月21日にリリースされた4枚目だ。
この年4月に初来日を果たし、その熱狂的な大歓迎の余韻に浸りつつスタジオに入り、入念なレコーディングで作り上げていくが、本作もまた〈ノー・シンセサイザー〉と特記があるように生のオーケストラも含めて多くの音が詰め込まれている。そのわりにすっきりしているのは、5人目のクイーンと呼ばれたプロデューサー、ロイ・トーマス・ベイカーの貢献も大きく、全体のサウンド・デザインの完成度は極めて高い。
大きな武器でもある全員が曲を書けることが効果的に作用し、ブライアンの書いたフォーク調の“’39”、ロジャーのハードな側面が出た“アイム・イン・ラヴ・ウィズ・マイ・カー”、ジョンのポップ性を押し出した“マイ・ベスト・フレンド”など、どれも粒ぞろいで、それらがあるからこそフレディのあの究極美学ワールドが際立ちもするわけだ。
美しい“ラヴ・オブ・マイ・ライフ”を経て、すべてのドラマがあの曲に集結していく。天上から降り落ちてくるコーラスに導かれ、《ママ、いま僕は人を殺してきた》で始まる美しいバラードからオペラへと突入し、さらにハードなロックへと展開する“ボヘミアン・ラプソディ”。わずか5分50秒程の長さながら交響曲のように感情を揺さぶるみごとさは、たとえロックが過去の音楽になったとしても忘れられることなく讃えられるだろう。3週間180回のオーバーダブの伝説が残るが、その価値は充分にあったし、この傑作の究極の核となっている。(大鷹俊一)
『華麗なるレース』(1976年)
「『UKバンド=クイーン』の豊穣なる到達点」泥臭いまでにのたうち回るロックンロールが美麗ハーモニーによって位相転換された“タイ・ユア・マザー・ダウン”に始まり、憂いに満ちたピアノ・バラードが多層ボーカル&ギターによってポップの異次元への扉を開いていく“テイク・マイ・ブレス・アウェイ”、“ボヘミアン・ラプソディ”の脳内妄想炸裂しまくりの奇想天外な展開を街の風景の中に落とし込んだような“懐かしのラヴァー・ボーイ”……といった具合に、前作『オペラ座の夜』で露わになった自らの音楽的/世界観的な特異性を自分たち自身で対象化し謳歌しているようなワクワク感が伝わってくる5thアルバム。まさかの日本語曲“手をとりあって”も含め、今作から実に5枚のシングルが切られていることからも、デビュー当時から組んできたロイ・トーマス・ベイカーと離れ初の完全セルフプロデュースとなった今作への意気込みが伝わってくる。
ジャケットのアートワークも含め『オペラ座の夜』と対になる形での連続性をもって提示された今作『華麗なるレース』。コンセプトなきプログレッシブ・ロックとでも呼ぶべきその音楽的な深化が示していたのは他でもない、「ロックは/バンドはどこまででも新しくなれる」という音楽的な冒険心と、そこから生まれる揺るぎない確信そのものだった。“ロング・アウェイ”〜“ミリオネア・ワルツ”〜“ユー・アンド・アイ”の流れには、2018年の耳で聴いてもカテゴライズ不能な躍動感が息づいているし、ブリティッシュ・ロックならではの情緒にユーモアもウィットも兼ね備えた「UKロック・バンド=クイーン」としての最高到達点として今作を位置付けるリスナーは少なくない。
が、今作の直前にリリースされたセックス・ピストルズ“アナーキー・イン・ザ・U.K.”をはじめパンク勢の勃興は同時に、クイーンの視線を母国イギリスからアメリカ含め世界へと向ける大きな契機となる。そして、“愛にすべてを”で3拍子系ハード・バラードとともに壮麗なる極彩色を描き出したコーラスワークを“伝説のチャンピオン”へ、“ホワイト・マン”で獲得した大地丸ごと引きずり回すビート感を“ウィ・ウィル・ロック・ユー”のフット・ストンプへと注ぎ込み、サウンド・デザインを一気にアメリカナイズしながら次作『世界に捧ぐ』へと突き進んでいくことになる。(高橋智樹)
『世界に捧ぐ』(1977年)
「パンクに負けなかった、王者のロッキュー戦略」クラッシュやジャムやセックス・ピストルズのデビュー作が立て続けにリリースされた1977年。イギリスの音楽シーンは、パンクの台頭で沸き返っていた。そんな状況下でレコーディングされた本作『世界に捧ぐ』は、言わば、クイーン流のパンク・アルバム!……というのはさすがにちょっと誇張しすぎかもしれない。でも、本作のテーマは、ある意味、ちょっと太り気味になっていたクイーン・サウンドの「ダイエット大作戦」だった。かつての“ボヘミアン・ラプソディ”のような「体脂肪率80パーセント超え」の名曲はここにはない。その代わり、もっとスリムに、もっと荒々しく、もっとダイレクトに!――それが、クイーンからパンク・キッズへの「彼らなりの回答」であったわけだ。
そんな「シェイプアップ化」の極みと言えるのが、オープニングを飾った、おなじみの“ウィ・ウィル・ロック・ユー”。ブライアン・メイがライブ会場でのファンの熱狂ぶりから着想を得て生まれたこの曲は、ラストの十数秒を除き、ギターもベースもドラムも登場しない。あるのは、生身の人間が打ち鳴らす足音と拍手の音(ドンドン、パン! ドンドン、パン!♪)。そして、フレディの圧倒的なア・カペラの歌声のみ――ここまでシンプルにして、ここまで「原始的」なレベルで闘争心を煽り立てるロック・アンセムが、この世に他に存在するだろうか。いや、しない。するわけがない。ドンドン、パン! ドンドン、パン!
その“ウィ・ウィル〜”で幕を開け、2曲目“伝説のチャンピオン”へなだれ込むワン・ツー・パンチが強烈すぎて、他の印象は霞みがちだけど、実は本作は、クイーンの全ディスコグラフィーの中でも、とりわけ「色とりどり」な楽曲を取り揃えたアルバムでもある。パンキッシュなスピード感で一気に駆け抜けていく“シアー・ハート・アタック”。スパニッシュ風ギターが午後のカフェ的に爽やかな“恋のゆくえ”。のちのディスコ・ファンク参戦を予見していた“ゲット・ダウン・メイク・ラヴ”――4人の音楽的な個性がバラエティ豊かに混在しているから、デパ地下の「諸国味めぐり」的に楽しめる。時代の流れに合わせ、過剰な脂肪分はカットしても、クイーンはやっぱり本質的に、どこまでもいつまでもグルメでおいしいバンドだった。ドンドン、パン!(内瀬戸久司)
『ジャズ』(1978年)
「時代の狭間に生まれた大傑作」前作『世界に捧ぐ』でクイーンはハード・ロック・バンドとしての資質を全開にしたことで見事にパンク勃発の大波を乗り切っただけでなく、文句なしに世界的スーパースター・バンドとして君臨することになった。それに続くアルバムとなった本作では、これまでの人気を裏切ることもなく、さらにニュー・ウェーブ/ポスト・パンクの台頭も見据えつつ、自分たちのクリエイティブなエッジをどう切り出していくのか試みていくという、非常に難度の高いハードルを要求されていたはずだ。しかし、出来上がったこの作品はクイーンの王道もあれば実験もあり、エンタテインメントとしてのロック・サウンドもあり、ショービズ風の楽曲もありという、全スペクトラムについてどこまでも鋭く切り込む類稀な傑作となった。この楽曲の多様性がまさにアルバム・タイトル『ジャズ』の意味するところで、いわゆる音楽スタイルのジャズのことではないのだ。
冒頭の“ムスターファ”などはついにワールド・ミュージック化したのかと当時は度胆を抜かれたが、これはたとえば〝ボヘミアン・ラプソディ”がペルシャ系インド人の移民として育ったフレディ・マーキュリーの複雑なアイデンティティと生い立ちを寓話化した切ない物語だったのに対して、非ヨーロッパ人としての自身のアイデンティティを打ち出していく果敢な試みだったのだ。その一方で、クイーンのヨーロッパ的な構築美とロック・サウンドをどこまでも無駄を削ぎ落としながら突き詰めてみせたのが“バイシクル・レース”で、ある意味でフレディとクイーンの実験的なアプローチの極致といえる傑作だといっていい。
さらに“ファット・ボトムド・ガールズ”、“デッド・オン・タイム”などクイーンとしての王道ロック・ナンバーを備えつつ、“ファン・イット”ではファンクを完全にものにしているところも素晴らしいし、本作の奥行きをよく物語るところでもある。しかし、なんといってもすごいのは必殺のクイーン・ナンバー“ドント・ストップ・ミー・ナウ”で、ある意味この曲さえあればほかは何をやってもいいというくらいに完璧な仕上がりだ。どこか過小評価されがちだが、クイーンがニュー・ウェーブでもオールド・ウェーブでもなくこの時期を乗り越えたのは、まさにこの作品の充実した内容によるところでもあったのだ。(高見展)
『ライヴ・キラーズ』(1979年)
「最初の絶頂期をとらえた!」自分的にはこれこそクイーン・ライブ盤のNo.1。79年初頭のヨーロッパ・ツアー各地からベスト・テイクを集めたもので、79年6月22日にリリースされた。直前の4月に三度目の来日を果たし8都市15公演を行っているが、武道館で体験したそのステージの完成度はみごとだった。ストレートな“ウィ・ウィル・ロック・ユー”で幕を開け、すぐに以前のマネージメントを攻撃する“デス・オン・トゥー・レッグス”で始まるメドレーでは“キラー・クイーン”を挟み込んだりと余裕でバンド力の高まりを聴かせていく。
“ナウ・アイム・ヒア”で観客と掛け合いで盛り上がり、“炎のロックン・ロール”はレコードを上回るスピードで突進、フレディの情感豊かでいてライブならではのエモーションをむき出しにしたボーカル、それに絡むコーラスや、ドラマチックこの上ないギターなどクイーンの魅力成分がどんどん積み上げられていく“ドント・ストップ・ミー・ナウ”などで盛り上げ、その昂揚感をギター・ソロが人気の最初期のナンバー“ブライトン・ロック”、そして〈ムスターファ〉のコールに応えて最初のコーラス部分を省略した“ボヘミアン・ラプソディ”もライブならではの素晴らしいバージョンとなっており、会場の興奮が極点に達するのも当然と納得がいくはず。
ライブ最後、ジャケットに写るようにステージ上部にあったライト群が鎌首を持ち上げるようになったときの美しい光景は今でも忘れられない。そのジャケット写真は日本人カメラマンが撮ったものだ。(大鷹俊一)