パティ・スミスは10月27日に他界したルー・リードを偲ぶエッセイを『ザ・ニューヨーカー』誌に寄稿している。エッセイの中でパティは最近ニューヨークで会った際にかなり具合が悪そうだと思え、ルーが死を予期していたような暗さを抱えていたと振り返っていて、その後、娘からルーの死を知らされたと綴っている。パティは自身とルーの出会いを次のように回想している。
「わたしがルーに初めて会ったのは1970年にマクシズ・カンサス・シティ(ニューヨークの有名なライヴ・クラブ。81年に閉店)でのことだった。その夏、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドはマクシズで1晩2回の公演を数週間続けていた。評論家で研究者としても有名なドナルド・ライオンズはわたしがまだヴェルヴェット・アンダーグラウンドを観たことがないのに驚いて、初日の2回目の出番にわたしをこの店の2階のライヴ会場までエスコートしてくれたのだった。わたしは踊るのが大好きだったのだけれども、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの音楽は何時間でも踊っていられる音だった。サーフ・ロックとドゥー・ワップが不協和のまま鳴り響いているもので、とても速いペースで、あるいは極度にゆったりしたテンポで身体を動かせる音だった。これがわたしの遅ればせながらの“シスター・レイ”への運命的な出会いとなった。
その数年後には同じマクシズの二階でレニー・ケイ、リチャード・ソール、そしてわたしとでわたしたちなりのダンス天国を提示してみることにもなった。ルーは立ち寄ってくれてはわたしたちのやっていることを観てくれたものだった。気難しい人だったので、わたしたちのことを励ましてくれたかと思ったら、掌を返したように頭の切れすぎる学生のように攻撃的な口調でわたしのことを挑発してくるのだった。わたしはなるべく関わり合いにならないように避けていたのだけれども、それでもルーは猫みたいに突然わたしたちの向かう先の横からひょいと姿を現わしては、デルモア・シュワルツ(作家・詩人。ルー・リードが大きな影響を受けた)が愛と勇気について触れた一節を暗誦してみせて、わたしの心を無防備にさせるのだった。ルーの突飛な行動や気分の振れの激しさはルーの語りが性急なものから急に寡黙なものに移り変わるのと同じで、わたしには訳がわからなかった。でも、わたしにはルーの詩というものへの献身、そしてルーのパフォーマンスが聴き手をどこかへ連れて行ってくれるような性質を備えたものだということはわかっていた。ルーの瞳は黒く、黒いTシャツを着て、肌は白かった。好奇心が強く、時には疑い深く、貪欲な読書人で、音の冒険者だった。使い勝手のわからないギターのエフェクターは、ルーにとって詩の一篇のようなものだったのだ。また、ルーはわたしたちにとって(アンディ・ウォーホルのアトリエの)ファクトリーの悪名高い頽廃を唯一直接伝えてくれる存在だった。ルーはイーディ・セジウィック(女優。アンディ・ウォーホルの映画に多数出演)を踊らせたこともあった。ルーはアンディ・ウォーホルに耳元で囁かれたこともあった。ルーは芸術と文学の感性を自分の音楽に込めてみせた。わたしたちの世代にとってルーこそがニューヨークの詩人であって、(ウォルト・)ホイットマンが勤労者に、(フェデリコ・ガルシア・)ロルカが被抑圧者を代弁するように、ルーは社会から脱落した人たちを代弁する第一人者となったのだ。
わたしのバンドがその後、ルーの曲をカヴァーするようになると、ルーはわたしたちを祝福してくれるようになった。70年代末にかけてわたしがニューヨークからデトロイトへと居を移す準備をしていた頃に、たまたまルーとまだ古かった頃のグラマシー・ホテルのエレヴェーターで出くわしたことがあった。わたしはルパート・ブルックの詩集を抱えていた。ルーはその本を手に取って、それからわたしたちは二人でルパート・ブルックの写真にしばらく見入った。とても美しく、とても悲しいね、とルーは言った。それは完璧な平穏の一時だった」
エッセイの締め括りでパティは10月27日にはなにか意味があるのではないかと思い当たったと次のように綴っている。
「寝る前にわたしは、10月27日というこの日付になにか意味があるのではないかと探してみたら、ディラン・トマス(1930~50年代に活動したウェールズの詩人・作家)とシルヴィア・プラス(63年に自殺したアメリカの女性詩人・作家)の誕生日だということを知った。ルーはこの世界を後にして航海に出るにあたって“パーフェクト・デイ”を、つまり、詩人の日を探し当てていたのだ」