日本の春にヨルシカは咲く - 春泥棒が盗んだものは何か

2021年、春。出会いと別れの季節と言われる春はその言葉とは裏腹に、去年に引き続いて人と人とが出逢うことが憚られた。
春休み、卒業旅行、卒業式、入社式、入学式…人生の区切りとも呼べるイベントはしめやかに行わざるを得なかった。いつもは花粉症で息苦しく感じるマスクが当たり前になったのはいつからだろうか。
私、そして日本人にとって春は待ち遠しい季節だと思う。険しい寒さを越えて、暖かな春が来る。木々は芽生え、花を咲かせ、実り、そして散っていく。人は別れ、新たな出会いを迎え、そして成長していく。新年に新春という言葉を使うように、春は何かが始まる季節である。

そんな新春に配信がスタートしたのがヨルシカの「春泥棒」だ。リリースされたのはまだ冬、まさに「春泥棒」の名の通り。これはヨルシカに限らずに言えることだが、日本には四季があり、冬の曲は秋に、春の曲は冬にと季節にまつわる曲はその季節の1つ前にリリースされることが多い。音楽でその季節の訪れを感じさせてくれるアーティストの発想、想像、創造する力に驚き、強く感銘して、その世界観に引き込まれるばかりだ。寒さ厳しい冬、私たちにいち早く春の訪れを感じさせてくれるのは春歌だと思う。
そして桜ソングは春歌の定番。森山直太朗の「さくら(独唱)」、河口恭吾の「桜」、コブクロの「桜」、ケツメイシの「さくら」…と幾多の桜ソングが日本の春を彩ってきた。日本の春からは桜は引き離せないものがある。だが、「春泥棒」の歌詞には桜という言葉が登場することはない。それでもこの曲から桜を感じずにはいられない。私たちにとってこの曲で歌われている花見から連想する花は桜だし、春吹雪という言葉も散りゆく桜吹雪を連想してしまう。
ヨルシカが紡ぐ言葉は詩的で、私たちが普段使う言葉からするとあまり馴染みを感じない。それでも日常を感じさせるのは、ヨルシカの世界観に引き込まれているのだろう。日本の春に桜は欠かせない存在だ。

少しだけ私の春を振り返りたい。例年何かを誓っては行動に移そうとする春。周りをあまり気にせず、我が道を行くタイプの私もこの時期ばかりは周りを気にし出す。学生時代、趣味を通じて知り合った友人たちと久しぶりに連絡を取り、予定を作ろうとしている。春という季節は何かと忙しいのに、それでもそれを行動に移そうとさせる春の力は偉大だ。それを機に刺激を受け、新たな何かを始めようと決意するが、その何かが実ったことはあまりない。SNSを見れば結婚、出産、転勤、移住…。ここ数年で周りの変化は著しいが、自分はどうだろうか?
去年、今年は例年と違う春を迎えた。毎年同じ場所、人で取り行う花見も中止。良くも悪くも例年と異なる時間を春を過ごしている。

ヨルシカの作詞、作曲を務めるn-bunaは「春泥棒」に関して次のように話している。

"春の日に昭和記念公園の原に一本立つ欅を眺めながら、あの欅が桜だったらいいのにと考えていた。あれを桜に見立てて曲を書こう。どうせならその桜も何かに見立てた方がいい。月並みだが命にしよう。花が寿命なら風は時間だろう。
それはつまり春風のことで、桜を散らしていくから春泥棒である"
(ヨルシカOfficialTwitterより引用)

この楽曲は命について歌われた曲。花は桜、華やかな人生、命はパッと咲き、春風によって散る姿も美しい。曲に込められた想い、それに自分自身を重ねて共感する。ただし、音楽の解釈は人それぞれだ。
私のどこか変わらなかった春、周りの変化にジレンマを感じた春、いつもの花見ができなかった春、全て風という時間でなかったことにしてしまおう。リセットしてしまおう。私は「春泥棒」を前向きな曲として捉えたい。

そうさせるのはヨルシカの創り上げる文学的な歌詞、その世界観にある。ギター、ピアノの旋律は麗かな春を感じさせ、その肝は「億劫」という言葉にあるのではないか。
本来、億劫とは気が進まない、めんどくさい気持ちを指す。ボーカルのsuisはその言葉の意味とは裏腹に軽やかにスキップするように億劫と何度も歌う。
そしてそれは「瞬き」「さよなら」「立つこと」などと私たちが意図せずとも日々見ず知らずの内に行っていること。それすら億劫にさせてしまうもの。

全部、桜のせいだ。

歌詞に出ずともそれを連想させる、日本に暮らす私たちとって春と桜はそれぞれを象徴するもの。桜咲く姿、そして桜散り行く姿はまさに圧巻で意図せずものとも億劫にさせてしまう。
また、これを桜という言葉を使わず表現してしまうヨルシカの世界観も桜と同様に圧巻なのだ。「春泥棒」と過ごす時間は、その切なさをも上回ってしまうのではないだろうか。

さて、もうじき春も終わる。春が終われば次は新緑、初夏を迎えて行くことになる。忙しい日常に呼応するように季節の巡りも早い。先程「億劫」という言葉に触れたが「春泥棒」では1箇所次のように歌っている。

「愛を歌えば言葉足らず 踏む韻さえ億劫 花開いた今を言葉如きが語れるものか」

美しすぎる程に圧巻と咲く桜、そして桜吹雪。それは愛さえも表現してしまい、言葉さえも凌駕してしまう。桜吹雪とともに散っていく花が歌われる中で春泥棒は最後にこう歌われる。


「ただ葉が残るだけ、はらり 今、春仕舞い」

言葉さえも凌駕してしまう桜。それは何度でも伝えるが、圧巻の様だ。それはもう言葉でも表現できないほどだ。それでも桜が散り、最後に残るのは桜の葉、そして言の葉なのだと。

桜の季節を先取りした「春泥棒」は葉を残して新緑の季節を迎える。
数ヶ月後、きっとヨルシカの「花に亡霊」を聴いて夏を想う、そんな季節がきっとくるだろう。


この作品は、「音楽文」の2021年5月・月間賞で最優秀賞を受賞した愛知県・にしむーさん(31歳)による作品です。


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