なぜシューゲイザーはみな同じ音を出すのか

なぜシューゲイザーはみな同じ音を出すのか

MY BLOODY VALENTINEが創出した、
後に「シューゲイザー」と呼ばれることになる文体は、
80年代から90年代へと時代が移り変わるその過渡期に突如発明され、
そして、その短い時期に多くのフォロワーを生んだ。
以降、ギターを主体としたロックはグランジからオルタナティヴ、
あるいは復古主義とめまぐるしく変遷を遂げてきたが、
シューゲイザーと称されるそれは、
あたかも地下水脈を流れるせせらぎのように、
むしろ日の目を見ることを避けるかのような控えめさで、
オーバーグラウンドで交わされる言葉ではなくなった。

しかし、今、CD店を覗いてみると、
そこにはしっかりと「シューゲイザー」と自らを規定した
新しいバンドたちが、場所を占めているのである。
一昨年についにリスタートを切った創造主MY BLOODY VALENTINEの、
時を超えた勇姿もあってか、
ここにきて、その文体は、新しいロックの言語として見直され、
積極的に話されようとしている。

しかし、である。
ロックの常として、さまざまな文体はいつも刷新されてきた。
というか、刷新と進化がロックそのものだといっていい、
つまりは、変化はロックにとってアプリオリな条件なのである。
しかし、なぜか「シューゲイザー」たちは、
その文体をほとんど変えようとしない。
その音は、1991年の昔から2009年の今に至るまで、
ほぼその設計を変えることがないのだ。

これはいったいなぜなのか?

どんなに完成された音楽文体においても、
意識的なミュージシャンであれば、
そこに何がしかのイントネーションやアクセントを欲するだろうし、
そうでなければ、そもそも「いま/ここ」を絶対の基本とする
ロックの表現として成立しないのはずである。
けれど、彼ら「シューゲイザー」たちは、断固としてそうはしないのだ。

なぜか。
それは、その文体の「構造」そのものが、
「シューゲイザー」が表現したいことのすべてだからである。
全編を覆うノイズと、その向こうでかすかに漏れ聴こえてくるメロディ。
それは、まさしく、世界との間に建てられた壁と、
その向こうで守られる自分という構図なのである。
「シューゲイザー」にとって、世界と自分とはそういうものであり、
それ以外はないのだ。
ロックがある種のイノセンスを擁護するものだとしたら、
彼ら「シューゲイザー」たちは、その権利の主張を
闘いではなく保護と隔離に求める。
無抵抗主義という抵抗主義があの音なのだ。
そして、その構図の絶対的な固定は、必然として彼らの究極の夢となっていくだろう。
「シューゲイザー」は「シューゲイザー」であることが、
すべてなのである。

さて、そんな「シューゲイザー」の最新の(?)バンドとして登場したのが、
このTHE PAIN OF BEING PURE AT HEARTである。
なにしろ、BEING PURE AT HEARTであることのPAIN、なのだ。
そういう意味では、「シューゲイザー」というものが何であるのか、
そのことを自ら明確に対象化した初めての「シューゲイザー」と呼べるだろう。
その批評性は新しいと思う。
その意味で、優れた2009年のロック・バンドである。
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