オアシスという病について

オアシスという病について - oasisoasis

ノエル脱退から1ヶ月。
バンドと関連のあったミュージシャンたちによる
「こうなることはわかっていた」的な楽屋話がぽろぽろと出、
散り散りになったメンバーたちの目撃情報も多少出てきた昨今、
いまホットなのは「俺たちがノエルと組む」というメディアを通じた求愛行動だ。

カサビアンからの「ツアー同行願い」に続いて、今日明らかになったのは、
レイザーライト側からの「新作プロデュース願い」だ。
どちらもノエルへの全幅のリスペクトから、
夢のようなコラボレーションを屈託なく熱望するものになっている。

90年代のアメリカのロックは、穴のあいたジーンズで気分が悪いと歌っていた。
90年代のイギリスのロックは、自前で買えるようになった服で最高だと歌っていた。
後者においてそれは、
音楽のひとつの要素に「ビッグになっていくプロセス」が加わるという
史上稀に見る時代精神を形成した。

90年代を見てきたカサビアンやレイザーライトが、
そうした「サクセスへの欲望」をむしろ剥き出しに、
そんなエネルギーそのものを自らのロックのダイナミズムとして
燃焼させてきたバンドであることはいうまでもないだろう。
そんな彼らがその始祖たるノエルをさらなる飛翔への「絶対カード」として熱望するのは
至極当然のことだろう。

でも、なぜだろう、このストーリーに素直にノれない自分がいる。
オアシスの登場とその描いてきた上昇曲線は、あのときたしかに時代を揺るがした。
それは、ビートルズのようなことが本当にいま目の前で起こっていることのありえなさと、
それが結果としてもたらした、ロックの素晴らしさの「再」発見だった。
しかし、それはもう「読んだ物語」なのである。
いまのイギリスには、かつてジョニー・ロットンがそうしたように、
「オアシスなんて嫌いだ」と決然と吐き捨てる誰かも必要なのでは?とも思ったりするのだ。
だって、それがロックの歴史なんじゃないか。
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