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なぜブラーは救われなければならなかったのか? というか、救われなかったからこそ、この再結集までの長い間、ブラーは放置されていたのだし、救われるために、彼らは昨年の夏、再結集した。そう思うのである。
救われなかったブラー。それは、平たく言ってしまうと、ブラー自身がブラーを好きになれなかったことだ。それはもう、『ザ・グレイト・エスケープ』の頃からそうだったと思う。『パーク・ライフ』の狂騒の、そのアイロニカルな反動として作られた『ザ・グレイト・エスケープ』には、モダン・ライフへのシニカルなフォーカスが自分たちの巻き起こした馬鹿騒ぎにも向けられている。そんなアルバムとして設計されていたその作品のリード・シングルが、あろうことか最大の「馬鹿騒ぎ」に引きずり込まれたことはもう皮肉としか言い様がない。例のオアシスとの「チャート・バトル」は、結果、ブラー「カントリー・ハウス」の勝利という結果をもたらすのだけど、その後の歴史が彼らに言い渡したのは、その逆の敗者の烙印だった。ロック・ヒストリーにおいても最上級に「大衆的な」オアシスのカウンターとしての、「ヒール」ブラー。「カントリー・ハウス」という楽曲そのものが、コメディ・タッチのアンチ・ロック的な演出を施された曲だったこともいけなかった。ブラーは、その後、ずっとこの「史実」を背負うことになる。世界中で成功を収めていくオアシスを尻目に、『ブラー』がアンチ・ブリティッシュで、『13』がポスト・ロックで、『シンク・タンク』が非西洋音楽で……と重ねられていく変遷は、積極的な変化へのトライアルではあるものの、王道を拒み逃亡を試みる苦悩をも思わせる。それは、結局、自分たちは愛されていないのではないかという疑いともとれる。
グラストンベリーのほぼ1週間後、再結集ライブの総決算となるハイド・パークのライブを聞くと、グラストと同じように、オーディエンスから「テンダー」の大合唱が起きている。9分にも及ぶ演奏の間中はもちろん、それが終わってからも合唱は止まない。その光景は、見えるようだ。そして、そこに投下されるのが、「カントリー・ハウス」なのである。あの阿呆のようなイントロの、ブラーの歴史の中でずっと取り除くことのできなかった重いトゲを、大合唱をバンドに浴びせ続けてくれたオーディエンスに投じていくのである。つまりこれは、「カントリー・ハウス」を許すということだと思う。というか、いつだってブラーを愛し続けていたオーディエンスの手によって、ブラー自身が自分たちを許してもいのだという許しを得た瞬間だと思う。
素晴らしいロックの瞬間である。
ドキュメンタリー映画『No Distance Left To Run』は明日から3日間の限定公開。