デヴィッド・ボウイは亡くなってしまったから、もう僕にとってどうしてももう一度インタビューしておきたい人はブライアン・フェリーだけだ……と最近なんとなく思っていたところにボックスセット『レトロスペクティブ:Selected Recordings 1973-2023』のリリースタイミングでのインタビューの打診が! もちろん即刻セッティングして、40分じっくり話を訊くことができた。1987年以来の37年ぶりのインタビューだから訊きたいことがありすぎて、ついつい思い入れの巨大な塊のような質問をぶつけてフェリー氏に見事にかわされるというありがちな展開になってしまった。
私「ロキシー・ミュージックはデビューアルバムからラストアルバム『アヴァロン』までの流れで見事にバンドとしての物語が表現されています。まるであらかじめデザインされていたかのようですね」
フェリー氏「アッハッハッハッ! いやいや、何もかもは、偶然の産物だよ! ハハハッ」
……もう、インタビューの最初から最後までクラクラしっぱなしだった。
ロキシー・ミュージックは実験的なアートロックから始まり、グラマラスな70年代ロック、ニューウェイブ的なモダンポップ、そしてアーバンなダンスロック、そして最後にはブラックミュージックのしなやかさと白人音楽の絵画的美しさが溶け合って洗練を極めたようなラストアルバム『AVALON』にたどり着いて解散した。一つのバンドが音楽的進化を最後まで全うして、見事に最高傑作を残してその物語を終えた最も美しい、稀有な存在がロキシー・ミュージックである。
初期にはブライアン・イーノも擁した強者バンド:ロキシー・ミュージックを率いて、さらにソロとしてもロキシー・ミュージック以上の人気を博し、いまだに現役でライブも制作も行っているブライアン・フェリー。ルックスもファッションもいまだに隙がないくらいにクールそのものだ。
そんなフェリー氏だからさぞかし理知的に論理的にキャリアを進めてきたのだろうと思われがちではあるのだが、実は昔からフェリーさんは天然かつ職人気質な人で、そこは同じアーティスティックなカリスマであるデヴィッド・ボウイとは根本的にタイプが異なる。でもそこがフェリーさんの魅力で、そんな魅力がたっぷり味わえるインタビューになったと思います!(インタビュアー:山崎洋一郎、rockin’on 2024年12月号掲載)
●こんにちは。お元気でしょうか?
「ああ、快調だ。君は?」
●元気です。本日はお時間をいただき、本当にありがとうございます。新曲“Star“は素晴らしいですね。
「ああ、それは良かった! ありがとう」
●ブライアン・フェリーの音楽芸術の2024年最新形が見事に結晶した曲だと思います。
「それはそれは、ありがとう! あの曲はまあ……本来は、50年の歴史をまとめたこのレトロスペクティブのボックスセットを出すことになり、過去を振り返ったわけだね。収録曲は81曲、と。で、実際、最後の最後で(苦笑)ハッハッハァッ! ギリギリの段階で、『ちょっと待った』と。というのも私の手元には来年リリース予定の新作音源、この、友人のアメリア(・バラット)とおこなったコラボレーション作品が揃っていてね。というわけで、そのうちの1曲をこのボックスセットに収録しようじゃないかと。だから、『未来を垣間見せてくれるもの』とでもいうかな(笑)」
●映画の予告編のようなものですね。
「そうだね、その通り! あれは楽しかったし、人々も大いに気に入ってくれ、自分としても非常に嬉しいんだ。というのも、私たちはたくさんの素材に過去2年ほど取り組んできたわけだし……とにかく自分のファンたちに対して、『何も私は怠けてぶらぶらしていたわけじゃありません』と示したかったんだ(笑)。音楽に取り組んで、忙しくしていたんだよ! というわけであの曲のミュージックビデオもここ、この私のスタジオで、レコードを一緒に制作したエンジニアと私とで作ったし、だから、そうだね……あのすべてがとても自然にひとつにまとまった。というわけで、その出来映えには非常に満足している。
それに、あの曲はそれ以外の(ボックスセット収録の)何もかもと実に上手くフィットしているから、そこも嬉しい。実に見映えも良い内容なんだよ。昔の写真がふんだんに使われているし、それらを通じて私の過去の異なる様々な時期を描き出している。私たちはこのボックスにCDを5枚収めることにしたけれども、時系列に沿うのではなく、それらを一種のカテゴリーごとに分類してね。ディスク1は『ヒット曲集』のようなもの――つまりよく知られたポピュラーな、人々も知っているであろう曲(笑)を一堂に集めてある。そしてディスク2は、私自身の楽曲、自作曲からのセレクション。ディスク3は、私が様々な段階でやってきた、他の人々の楽曲を解釈したカバー曲集。ディスク4はある意味、ジャズに挑戦した冒険の数々だね(笑)。そしてディスク5は他よりももっとレアな楽曲集で、未発表曲も3曲含まれる。大抵の人々は恐らく耳にしたことのないであろう、そういうレアな曲を集めてある。
だから、このボックスのコンパイルの仕方はかなり興味深いものだったということだし、実際、やっていてとても楽しかったよ(笑)。それにもちろん、新しいトラックも入っている。あれは、来年どこかの時点で出るアルバムへと続いていくわけで」
●あなたのソロキャリアを網羅した5枚組CD作品『レトロスペクティブ』を今リリースしようと思った理由と経緯を教えて下さい。
「(苦笑)。いやぁ、何もかもが、ほら……やはり、パンデミックのあれこれで遅れたわけで。私たちは『こういう作品を作ろうじゃないか』と、もう何年も話してきたんだよ。これは作らなくちゃいけない、時機が訪れたら作ろう……そう話しているうちに、気がつけばいつの間にか(ソロデビュー)50周年になっていた。『ああ! もう50年か。じゃあ、今やっておいた方がいいな……』ということになったんだ(苦笑)」
●(笑)。
「(笑)。うん。で、確か2年前だったかな、私はロキシー・ミュージックのための、一種の『50周年お祝いツアー』みたいなものもやったわけで。だから……そうやって、ロキシー向けのアニバーサリーもやったんだから、じゃあ今度は、ソロレコーディング音源のコンピレーションを作り、祝賀しようじゃないか、と思った。ツアーの形ではないけれども、ソロ音源の中でもベストな曲の多くを、どこかひとつの場所に、一カ所に収めようとしたわけだ(笑)」
●ロキシー・ミュージックはデビューからラストの『アヴァロン』までのアルバムの流れで見事にバンドとしての誕生から到達点までの進化の物語が表現されています。しかも10年の間、ひとつのディケイドの中でそれを完璧にやっていて、まるであらかじめデザインされていたかのようです。
「アッハッハッハッ! いやいや、ああして起こった何もかもは、偶然の産物だよ! ハハハッ」
●(笑)。ですので、お訊きしたいのですが、ソロにおいてもあなたはエンディングの作品までもうイメージしていたりするのでしょうか。もちろん、あなた個人の最後、という意味ではありませんが、「ブライアン・フェリーの物語曲線」のフィナーレはこうしよう、と考えることはありますか?
「うーん、まあ、それを『デザインする』とまではいかないけれども……ただまあ、物事がどう展開するかは分からないし、不思議なものでね。だから、いったん物事が起こると、『なるほど、こういうことだったのか』と納得がいくようになるというか、『そうか! こういうことになったのは、たぶんこのせいだったんだろう』云々と思える。けれどもその当時の私は、自分の人生において一定の決定を下す、あるいは結論に至ることへと私を導く、そうした運命や宿命のことは何も知らなかったわけだし。
ただ、ロキシーに関して言えば、とにかく私は、どのアルバムも――良い作品にしたかったね(笑)。かつ、アルバム1枚1枚を、それぞれ前作から少しだけ違いのあるものにしたかった。それに、私たちはグレイトな面々にも恵まれていた。ブライアン・イーノがいた第一期はファンタスティックだったし、私たちはもっと実験的なことをやっていた。続いて一種の中間期のようなものがあり、思うにあのとき、私たちは自分たちの立ち位置を固めたんじゃないかな?
そしてまあ、自分たちのレパートリーを、異なるやり方でひたすら広げていったわけだね。優秀な若いプレイヤーであるエディ・ジョブソンを迎え入れたし、彼はバイオリン奏者だから私たちにはストリングスが使えるようになった。また、彼は際立った、巧妙なキーボードプレイ等々もこなしてくれた。それでもバンドのメインのピアノ奏者、およびソングライターは常に私だったわけだし、つまりあの頃は――荒削りな『意志』の数々、その興味深い組み合わせだった、ということだね。ハハハッ! そして……みんな、ずば抜けて才能に恵まれた連中だった。ほら、(フィル・)マンザネラに、(アンディ・)マッケイに、それにドラマーのポール・トンプスンも実に優れたプレイヤーだった。だから誰もがグレイトだった、と(笑)。
そんなわけで、私も『これ(ロキシー)をやるのは本当に楽しい』と思っていたけれども、自分のやりたかったのは……そうだね、自分のソロレコードをちょっとやってみたいと思ったんだ。というか、当初の時点では1枚だけのつもりだったんだよ。だから、『ああ、ソロレコードを1枚やってみよう』と。つまり、バンドで作るものとは違って、他の人々の書いた曲の中から自分が選んだ楽曲で実験し、どうなるか見てみよう、と。それを通じて、私自身のアレンジャー/レコード制作者/シンガーとしての仕事を続けていこうとしたんだ。つまり、ソングライターとしての、曲を書く任務から逃れてね。で、あれは実際、やってみたところ私にとってかなりリフレッシュされる体験だったんだ。そしてやがてそれが、バンドとは別個の、もうひとつのキャリアへと変化していったという。
というわけで、そうだね、ロキシー・ミュージックではなく、『ブライアン・フェリーのキャリア』というものになっていった。そして数年の間、私はそのふたつを並行させていたわけだが……次第にそのうちのひとつだけをやりたい、と感じるようになったんだ、『自分という人間はこれなんです』とね(笑)。大まかなストーリーとしては、そういうところだよ」
●ときに、そのパブリックなペルソナとしての「ブライアン・フェリー」に距離を感じることはありますか?
「フーム、『ペルソナ』というのは、自分にもよく分からないなぁ。というのも、そのペルソナというのは……いったい何なんだろう? 私にも定かではないけれども、やはりこう、『スーツ姿の人物』みたいなものなんじゃないかな? あの当時、スーツを着てネクタイを締めるというのは変わっていたんだろうし。で、私は……うーん、君の言わんとしている(ブライアン・フェリーの)『ペルソナ』というのが何なのか、よく分からないんだが。上流階級の生活を送っている人間、というイメージなんだろうか?」
●先ほど仰ったように、ロキシー・ミュージックではあなたが主に曲/歌詞を書き、となればそこにはあなたご自身を込めることもあるわけです。
「ああ、もちろん」
●ですがブライアン・フェリーのソロレコード、特に他者の曲のカバーを多く取り上げた初期作品では、あなたは「別の誰か」、「翻訳者」になったと言えるのではないでしょうか?
「ああ、なるほど。歌の中で役を演じる俳優のように、ということだね。でも、もちろんどの俳優だって、役を演じる際にはそこに自分自身の一部を持ち込むわけだし」
●そうですね。
「それは事実だよ。うん……だから私はまあ、自分のレパートリーを広げるというアイディアが気に入っていたんだ。あの当時私は……1973年頃になるんだろうけれども、自分は(チャート上位に入るような)ヒット曲を書いてはいないし、自分は興味深い曲を書いているんだな、そう思っていた。対して、カバーするべく自分の選んだあれらの曲は、いずれもポピュラーな『ヒット曲』だったわけだ(笑)!
というわけであれは、より広い公衆層へ、より主流なパブリックへとリーチするためのひとつの方法だったわけだ。で、思うに恐らくそれによって、実際私は、この『広い公衆層』なるものを、ロキシー・ミュージックの音楽へと連れ込んだんじゃないかと。さもなければ彼らにとって、ロキシー・ミュージックは『うーん、自分にはちょっと奇妙すぎる音楽だ……』と思われていたんじゃないかな」
●(笑)。
「だから私は、彼らを『裏口』からロキシー・ミュージックの世界へ呼び込んだ、ということだね。フフフッ!」
●あなたのソロキャリアにおいて、カバー曲がかなりの割合を占めていて、しかも重要な意味を持っています。あなたにとって、オリジナルソングを作って歌うこととカバー曲を歌うことの違いはなんですか?
「その違いで最も大きなものとして真っ先に頭に浮かぶのは、『責任感』だね。他人の書いた曲を歌うときは、自由を感じる(笑)」
●偉大な名曲を歌うのも責任を感じるんじゃないかという気もしますが、あなたは逆なんですね。
「ああ。だから、そういった曲には、既に『偉大なバージョン』が存在しているわけだし。原曲を作ったアーティストが、もうそれはやっているだろう。そんなわけで私は、まあ、これはその『オルタナティブなバージョン』に過ぎない、そう考える。それに、(曲が優れているから)こちらもしくじりっこないしね(笑)」
●(笑)。なるほど。
「対して、いざ自作曲となると――やはり、『完璧なものにしたい』等々、考え込むわけでね……自分が発表するまで、まだ誰も耳にしたことのない曲なわけだし、『ああ〜』と悩む……そうだね、違いがある。たぶんそれは、責任感ということだと思う。それは、曲の書き手として感じるもののひとつだよ」
●なるほど。
「だから私は、曲を作る際に関わってくる、すべてのパーツが好きなんだよ。少なくとも、順調に進行しているときは、私もソングライティングが好きだ(苦笑)。スタジオで過ごすのは好きだし、そこで他の面々と共同作業し、ミュージシャン等とコラボレートするのも本当に好きだしね。
それに、スタジオ内で、コンソール卓の背後にどっかと腰を据えるのも好きだよ。普段の自分がやっているのは、大体そういうことだ。で、ときおり、パフォーマンスをやることもある、という。パフォーマンスをやるというのは、おっかない行為だ。ただ、面前のオーディエンスから喝采を浴びるのは最高の体験だからね(笑)、いや、あれは素晴らしいものだよ。というのも、観客が好きな音楽を、彼らの前で演奏できる機会を得るわけだから。それも、ミュージシャンである上で味わえる、冒険の一部だね」
●あなたはとても批評的なアプローチでカバー曲をやりますよね。あなたの解釈を通じて、その曲の本質を引き出すときもあれば、新たな面を浮かび上がらせることもある。
「ああ、なるほど」
●例えばディランの“はげしい雨が降る“ですが、私はディランのオリジナルも大好きですが、あなたのバージョンは実に非オーソドックスでモードも全く異なり、「ブライアン・フェリーの世界」の一部になっています。で、あなたは曲を理知的に理解してからカバーの仕方を考えるのですか?
「(即座に)ノー、いいや、それはない」
●では感覚的にカバーのアプローチを決めるのですか?
「なぜその曲をカバーしたいのかと言えば、大抵は……その歌に対してフィーリングを抱くから、その歌に愛情を抱くからであって。例えば、そうだな、私が一番最近やったカバーと言えば……直近のカバーは“シー・ビロングズ・トゥ・ミー“になると思う。これまたディランのカバーだし、『50年後』にやってみた、という(笑)。で、あれらの曲の歌詞が私はいまだに好きで、”シー・ビロングズ・トゥ・ミー“は本当に美しい曲だと思うし、ひとつカバーに挑戦してみよう、と思った。さて、どうカバーしようか?と思って、とにかくピアノの前に腰掛けて音を出しながら、その道/方法というのか、自分の一部だと思えるカバーの方向性みたいなものが浮かんでくるかどうか、試してみた。それと同時に、曲そのものに対しての敬意も備わった、そういう方向性をね。
というわけで……うん、とにかく、曲に対して想いがあるかどうか、それだけだよ。で、どうなるか試しにやってみる、という。ときに、着手した段階に較べて、完成したものが別物になっていることもある。作っていく間に、あれこれとややこしい旅路を経ることによってね。その一方で、最初に考えた姿のままで仕上がることもある。で、私が最初に取り上げたカバーは、そう、さっき君の挙げた〝はげしい雨が降る〟だったけれども――たぶん、私のやったベストなカバーは、あれなんじゃないかな? ハハハッ!」
●(笑)。それはないですよ!
「(笑)。自分はそう思う。少し前にあれを聴いて、我ながら『ワオ!』と思ったくらいで(笑)。それは、ドルビー・アトモス・ミックスで聴いた、というのもあったんだ。ボブ・クリアマウンテンが、ディスク1で、アトモス・ミックスを担当してくれてね」
●ああ、そうなんですね!
「素晴らしい響きだ。ああやってフレッシュになったバージョンを聴いたときは……今年の4月に、彼のロサンジェルスのスタジオで試聴したんだけれども、感想は(興奮した表情で)『ワオ、なんてこった! ベースが素晴らしい! ストリングスもグレイト! 何もかも最高!』という感じで」
●(笑)。
「(笑)。バッキングボーカルもファンタスティックな響きだし、これは良い、とぞっこん気に入ってしまった(笑)。いや、自分も気に入れることをやれるのは、最高な気分だからね。というのも、私は実際、自分でも気に入らないことをたくさんやっているし、そういったものは『ああ、もう気にするな、忘れてしまえ……』という具合だから。でも、うん、あの曲は本当に好きだ(苦笑)」
●それはたぶん、あなたが完璧主義者だからじゃないでしょうか?
「(照れ笑い)。さて、それはどうかな……」
●気に入らないものもあるでしょうが、これまで、あなたは本当に素晴らしい曲をいくつも作ってきましたし。
「うん」
●自分で作ったロキシー・ミュージックの曲をセルフカバーすることも度々ありますよね。それは曲のアップデート/モダナイズですか? それともアナザーバージョンですか?
「うん、私はただ、アナザーバージョンを作っているだけだよ。だから、『この曲は別バージョンをやるに値する』と感じる、そういうことだと思う。分かるよね? 例えば“マザー・オブ・パール“を自分で取り上げたとき、あの曲の前半部は使わなかった。あの曲はロキシーのアルバム『ストランデッド』(1973)収録曲で、二部構成でね。パート1&2、という具合に」
●ええ。
「で、その最初のパートはワイルドなノリで、次の第2部は内省的、という構成で。けれども曲の主体はその第2部であって。で、あるときたまたま、何人かの素晴らしいミュージシャンたちと作業をしていてね。ドラマーのスティーヴ・フェローンに、ベースプレイヤーのネイザン・イーストに……この同じセッションには、メイシオ・パーカー(Sax)も来てくれていた(※恐らく、1993年の『タクシー』セッションのことと思われる)。そういう腕の立つプレイヤーが集まっていたし、そこで、そうだ、“マザー・オブ・パール“のバージョンをやってみよう、と思い立った。とにかく見事にハマったし、素晴らしい響きでね。オリジナルバージョンとはすっかり変わっていたし、とにかく一種のオルタナティブなやり方、というものだった。
というのも、ほら、私たちの人生にしたって、日々、毎日は違うわけだよね(笑)? つまり、別の日だったら、また別のやり方で別バージョンをやっていることだろう。で、今日の自分は、このやり方でやろうじゃないか、と」
●“マザー・オブ・パール“には、そんなあなたにもいまだに通じる何かがあった、ということでしょうね。おっしゃる通り、あの曲の前半はパーティの喧騒を描き、曲の後半では「ああ、自分は何をしていたんだろう……?」的な、後悔やメランコリーが描かれます。
「(苦笑)。ああ……」
●けれども、もっと後になって、ある程度の年齢に達した視点から振り返っても、そこにあなたは共感できたのだと思います。ということは、今から50年前から、あなたのメランコリーはあなたのキャリアに一貫して響いてきたのかもしれません。
「ああ……まあ、『悲しい音楽』は、常に私の心に触れてきたからね」
●(笑)。
「(苦笑)。いやいや! 私は、センチメンタルな音楽が好きなロマンチストなんだよ、所詮は。最近も……というか、昨日のことだけれども、とあるラジオ番組向けにいくつか楽曲を集めてリストを作ったばかりでね。リストを眺めていて我ながら思ったよ、『おやおや、大半は悲しい曲じゃないか!』と(苦笑)」
●ハハハハハ!
「(笑)。でも、それらは悲しくも美しい曲なんだ! 例えば、マーラーからの選曲だったり……クラシック音楽の曲だね。ただ、私の心に最も訴えてくるのは、そういった類いの音楽なんだよ。つまり朝起きて、朝食を食べながら気軽に聴き流す、そういう音楽ではない、という(苦笑)」
●(笑)。
「だから、私は夕方向けの音楽や、たそがれ時のための音楽が好きだ、ということだね」
●スタンダードな曲、知名度の高いポピュラーな曲をカバーするというのはまさにポップアートそのものであるとも言えます。ポップアートは、どこにでもある一般的な物体/商品/広告等を再び作り替え、それを「芸術作品」にするということだったわけで。
「うん、その通り。そうしたありきたりな物を、別の場所に置き換える、という」
●ニューカッスル大学で現代アートを学び、一時期アートの教師でもあったあなたにとって、カバーとはポップアートの素材として歌を捉えるということでもあったのでしょうか。
「まあ、ソロの1作目を例にとると……もちろんボブ・ディランの曲があるし、それに実際、ストーンズの曲に、ビートルズの曲もある。アメリカ産のポップソングもかなり取り上げているよね……〈モータウン〉曲に、ブリル・ビルディングの職業作曲家の書いた曲……その手のポップソングを取り上げている。ああ、レスリー・ゴアの曲もあるな! 彼女は当時の私のゲイの友人連中にとってはこう、かなりキャンプなアイコン的存在だったんだよ。だから彼らは彼女のレコードが大好きだったし、それで私も、『そうか、じゃあ、レスリー・ゴアもやろう!』と思い立ったわけだ(笑)。要するに、遠慮は不要、と(笑)。
それと同時に私は、古典的な曲もやりたいと思った。それで、“愚かなり、わが恋”、ファーストソロのタイトルにもなった、あの古い曲を選んだんだ(※原曲の出版年は1930年代)。で、あれもまた、ちょっとしたキャンプな選曲であって……いやだから、よりによってなんでまた、ロックミュージシャンがあんな古い歌を歌うんだ?と。で、そこに対する私の思いは、単に、あの曲を歌っていて自分が楽しいからだよ、だった。それに、あの曲に一種の美しさを見出したからね。歌詞も美しいし、ノスタルジックでもあり、まあ、たくさんの要素があった、と。
というわけで、私たちはあの曲から非常に興味深い作品を作り出すことになったし、ただし、人々もあれをとても気に入ってくれたんだ。重要な点は、そこだよ。私は何か良いことをやったんだろうね(笑)。だから、うん、歌を本来の文脈から取り外し、別の文脈に置き換える、ということだね。そして願わくは、自分がそうすることで、作品を通じて、その歌に新たな生命を吹き込めれば、と」
●日本ではあなたを形容する際に「ダンディズム」という言葉が多用されるのですが――
「(苦笑)。ああ! うん」
●――その言葉は浅薄すぎると私は思っています。あなたのファッションやアルバムジャケットのアートワークの美学に対するこだわりは何を意味するのか、ご本人から語ってもらえないでしょうか。今日も、とてもお洒落ですね(※この日のフェリーは、ダンガリーシャツの上に黒のスポーツジャケット姿。たまに資料等を読む際には、べっ甲縁の丸眼鏡をかけていた)。
「(自分の今日の装いは「普通ですよ!」と言うように、軽くおどけたポーズを取りながら)私は、ファッション(流行)を『追いかける』ことには興味がないんだ。けれども概して言えば、私は物事の『デザイン』に興味がある。デザインには興味があるが、ただし、最新のファッションをフォローすることに興味はない、と。いやまあ、(苦笑)常に自分らしくあろうとしている、ただそれだけなんだがね……そうは言っても、自分が好む一定の服であるとか、そういったものはある。全般的に言えば、『クラシック』な類いのものが好きだね。概して、古典的なもの。古い映画が好きだしね。昔の映画の中に出て来る、人々のルックスが好きなんだ。ケリー・グラント、ハンフリー・ボガードといった面々は皆、私には常に魅力的に映る(笑)。それに、あの手のファッションは5年おき、あるいは10年おきにリバイバルするものだから。常にリサイクルされているし、それは君も目にしてきたはずだ」
●はい。タイムレスなスタイルがお好きだ、ということのようですね。
「ああ」
●あなたはビジュアルとサウンドとの間に非常に細かく密な関係を築いてきました。これはなぜなのでしょう?
「うん、それはやはり、私がビジュアルアーティストとして訓練を積んだからだし、私自身、ビジュアルな物事がとても好きだからだよ。実際、友人の多くはビジュアル系の仕事をやっている面々だと思う。美術館やアートギャラリーに行くのが好きだし……だから私は今も、自分はアーティストだと感じている。ただし、私がアート作りに取り組むのは音楽の世界においてだ、ということ。そんなわけで、なんらかの作品のカバー(ジャケット)を作る段になると、関与したくなってしまうんだ。『これこれ、こういう風にしようじゃないか』という具合に。けれども、私は常に他の人々からの意見も含めたいんだよ。それは例えば、フォトグラファーかもしれないし、タイプフェースを選ぶ人間、ということもあるだろう。コンピュータ関連の作業をしてくれる人かもしれない。そういった、作品に関わってくれるあらゆる人々からの意見を聞きたいね。そうは言っても……私は監督する(direct)のが好きなんだな」
●そこに関しては、あなたは良い意味での「専制君主」なんでしょうね。
「(苦笑)。うん、たぶんね」
●ソロの話から少し外れるのですが、あなたは昔から自分が「ヨーロッパ人」であること、「白人」であることに批評性と距離感を持っているロックミュージシャンでした。あなたはヨーロッパ人であり、もちろん英国人であり、しかしアメリカの黒人音楽を敬愛する面もあり、と非常に複雑ですよね。
「でも、そのどれもが私だからねぇ(苦笑)」
●ロキシー・ミュージックの初期は、そうした多彩な影響が混在することで未来/宇宙的なサウンドを生んでいました。ところがバンドの後期、『フレッシュ・アンド・ブラッド』や『アヴァロン』の頃までに、特にアメリカでは、ロキシー・ミュージックは「ヨーロピアンで都会的な洗練」を体現する存在になりました。60年代以降、ロックは主に若い白人男性の表現フォーム/媒体になっていたわけですが、そうしたヨーロッパ/白人ロックから逸脱しながらヨーロッパ白人的な美学を極める、というアクロバットのような道をロキシー・ミュージックは最後まで全うしたと思います。
「実際、ロキシー・ミュージックはもっと普遍的なものになった、ということだね、うん。かつ……恐らく『アヴァロン』までに、ロキシー・ミュージックはもっと姿勢/態度に駆り立てられたものになっていたんじゃないか、私はそう思う。たぶん、だからなんだろうね、もっと広い層にちゃんと届くことになったのは。というのも、人々が求めるのは……つまりあの作品には、いわゆる『美術学校生的な妙なアジェンダ』は一切含まれていなかった、と(苦笑)」
●確かに。
「私たちが『アヴァロン』に達する頃までには、ロキシー・ミュージックはある意味、純粋に音楽と言葉になっていたわけで、そこに、人々も反応してくれたんじゃないだろうか?」
●(笑)。ヨーロッパ人としてのご自分の面には、どんな思いを持っているのでしょうか。例えば“ヨーロッパの哀歌“ですが――
「(笑)。ああ、あれは少し奇妙な曲だよね」
●あの曲名はユーロビジョン・コンテストに対する皮肉でもありますし、歌詞もヨーロッパのイメージのパロディと言った具合で、アンビバレンツがあると思います。ヨーロッパ人であることを、どう捉えていますか?
「どうだろうね、今の私は――何しろ、これだけ歳を取ったから。だから今はシンプルに、自分もこの一部なんだ、と思っている……いや、私は自分自身のルーツを愛しているんだよ。英国北部生まれの、貧しい労働者階級出身のイギリス人としてのルーツ、そのもろもろを愛している。自分のその面は、心底好きなんだ。ところが私という人間は、そうだねぇ、なんというか、生涯を通じてどんどん変化していった、ということじゃないかな? 例えば、欧州を訪れてパリ、ベルリン、ミュンヘン等を知り、それから東京に、そしてロサンジェルス、ニューヨーク……といった具合に、各地で色々な都市を発見してきたんだ! だから、ミュージシャンでいられるのはとてもラッキーなことなんだよ、そうやって世界中をさんざん旅して回れるんだから。しかも訪れた各地で、美しい物を山ほど目にすることができる。
そんなわけで、私はそうした様々すべての混ざり合った存在なんだ。ヨーロッパ文化も好きだし、ブリティッシュ文化も、アメリカ文化も大好きだ。日本についても、もっと詳しければいいんだけれども……でも、日本に行くたび毎回、素晴らしい時間を過ごさせてもらってきたよ。東京に、とても仲の良い親友がひとりいてね。川西浩史(※スクリーンプリント作家)なんだが、本当に長い付き合いでね。私のキャリアの始まり、その最初の頃からの知り合いだ。彼は以前、ニューヨークで暮らしていてね。ジャスパー・ジョーンズ(※米ポップアート画家)とも仕事した間柄だったんだ」
●5年前の来日では小さなコンサートホールでのライブで、オールタイムベストのようなセットリストで最高でした。こうして『レトロスペクティブ』も出ることですし、また来日公演をぜひ考えてほしいのですが。
「んー、まずはまあ、日本の人々がこの『レトロスペクティブ』を気に入ってくれたらいいな、そう願っているよ。うん、こうして私たちがボックスとしてまとめたものを、気に入ってもらえたら嬉しいね。日本の人たちもこの作品に込められた色々な努力を、いかに細部まで丹念に作られたものかを、理解し、味わってくれるだろうと思うから。でも、それと同時に、日本のリスナーは、私の新しい作品も気に入ってくれるんじゃないかな? 来年上半期に出る予定の、新作をね。とてもクールな作品だから、日本の人々は、そこに良く反応してくれるんじゃないかと思う」
●今日はお時間をいただき、本当にありがとうございました。お話を聞けて、とても楽しかったです。
「ああ、私も同感だよ。君は私について、なんでも知っているらしい! ハッハッハッ!」