先週のワールド・ロック・ナウ


ケシャの新作のタイトルは「ウォーリア」。決してヴィクティム(犠牲者)ではなく、戦士であれというメッセージを込めたものらしい。
下ネタ連発のパフォーマンスや、分かりやす過ぎる音作りから、本国アメリカではトラッシュ・ポップ(ゴミ・ポップ)と呼ばれる事さえあるようだ。
しかしそんな事にめげるケシャではなく自分のスタイルは変えない。それどころか最新作はよりパワフルに分かりやすく、そして下ネタ爆走で作られている。
その姿勢に共感するロック・アーティストも少なくなく、この最新作にはフレイミング・リップス、ストロークス、イギー・ポップが参加している。
でもケシャが凄いのは、そうしたロック・アーティストに擦り寄ることなく、あくまでも自分のスタイルを貫き通していること。
トラッシュ・ポップと呼ばれようが自分の音楽を信じているのだ。
少女時代に苛めを体験し、ミュージシャンとしてのキャリアを作曲家としてスタートとしているところはレディー・ガガと同じ。
2人とも非常に分かりやすいセクシー(?)・アイドル・ポップをやっているのが面白い。唐突だが、AKB48の峯岸みなみが丸刈りになった。いろいろな議論がされている。AKB48はメンバーの名前も知らないし、顔の区別もできないので、間抜けな感想になるのを覚悟で書くが、日本には今の時代に対応したアイドルのロールモデルがないと思った。AKB48に限らず、今のアイドルは幻想ではなく、楽屋まで見せてしまうリアルなゲームの構造の上に成立している。
ももクロがプロレスのノウハウを導入して成功したのは、だから偶然ではなく必然だった。今の時代に対応したアイドル・システムはいろいろな形で回っている。僕は余り興味はないが、それはそれでいいとおもう。
ただ今の時代は、そのシステムとは違うところのアイドルが必要とされている。それが日本にはない。アイドルという表現を主体的に選び、そこで主体的に闘う、そうしたロールモデルがない。
ワイドショー・レベルの知識での感想だが、丸刈りの峯岸みなみは犠牲者に見えた。それは自分のアイドルでいたいという欲望の犠牲者なのか、AKB48というシステムの犠牲者なのか、きっと両方なのだろう。日本でもアイドルでありつつウォーリアである事は可能なはずだ。何か書いているうちに、近いうちに出てくるような気がしてきた。時代が要求している感じがする。
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