【グラストンベリー】46年間の歴史丸わかりエピソード集前半:1970年~1994年


イギリスを代表するロック・フェス、グラストンベリー・フェスティバルが今年も開催される。今年はレディオヘッドフー・ファイターズ、そしてすでにウェンブリー・スタジアムでのソロ・アクトを達成しているエド・シーランがヘッドライナーを務める。

現在では来場者数17万5千人と世界最大の規模を誇る超巨大フェスティバルとなっているが、もともとは観客数1500人から始まったイべントだった。会場は今も昔も、オーガナイザーのマイケル・イーヴィスのワージー牧場とその周辺地域が使われている。

「エピソード集前半:1970年~1994年」では、初開催の1970年からメインステージが火事に見舞われた1994年まで、16回に渡るグラストンベリー・フェスティバルのエピソードを紹介していく。


1970年
グラストンベリー・フェスの初の開催で、この時はピルトン・ポップ・アンド・ブルース・フォーク・フェスティバルという名で開催された。入場料は1ポンド(当時のレートで約870円)で牛乳が付いてきたという。開催日の1970年9月19日はジミ・ヘンドリックスの死の翌日だった。参加者はおよそ1500人で、ヘッドライナーはティラノサウルス・レックス(後のT・レックスのフォーク時代のユニット名)で、出演が取り止めになったザ・キンクスのピンチヒッターだった。


1971年
グラストンベリー2回目の開催。この年から夏至近辺の開催となり、またその名前もグラストンベリー・フェアとして知られるようになった。この年はオーガナイザーが複数関わり、フリー・フェスティバルとして開催された。ホークウインドとトラフィック、そしてデヴィッド・ボウイらが出演した。デヴィッドはこの約30年後、2000年に再びヘッドライナー出演を果たすことになる。

1978年
7年の間を開けたのち3度目の開催が行われたが、実はあらかじめ予定されていたわけではなかった。フェスティバルが開催されるらしいという噂を聞きつけた人たちが近隣で開催されていたストーンヘンジ・フリー・フェスティバル経由で自然と集まり、その後行われた話し合いによりそのままフェスティバルが開催されることになったのだ。ストーンヘンジ・フリー・フェスティバルから流れてきた機材車を電力に使って簡易ステージが設置されたが、ヘッドライナーのようなアクトはなかったという。

1979年
マイケル・イーヴィスがワージー農場を担保に銀行に資金融資してもらい、3日間開催の本格的なイべントとして開催、ピーター・ガブリエルらがヘッドライナーを務めた。しかし赤字に終わり、翌年の開催は見送られる。1981年に「しっかりとした経営管理」のもと再び開催された。


1981年
正式にグラストンベリー・フェスティバルとして開催されたのはこの年から。メイン・ステージとしてのピラミッド・ステージも設置されたが、フェス開催時以外は牛舎と納屋として使われていた。出演バンドは、この当時さまざまなフェスの常連だったホークウインドなど。
また、この年からイギリスの反核団体の核廃絶キャンペーン(CND)と提携する形で開催。反CND団体の飛行機などが嫌がらせで飛来する情報があったが、マイケル・イーヴィスは70ポンド(当時のレートで約3万円)分の花火を打ち上げて飛行機を追い散らすことに成功した。なお、「ピースマーク」として広く知られるシンボルマークはもともとCNDのロゴである。

1982年
過去45年間で最高の降水量を記録し、悪天候に見舞われたこの年のグラストンベリーでは、ゲイリー・ニューマン率いるチューブウェイ・アーミーの“Are ‘Friends’ Electric?”の演奏でレーザー光線の演出が初めて使用された。出演者はヴァン・モリソン、ジャクソン・ブラウン、ロイ・ハーパーなど。ちなみに、当時のポスターにはU2の名前が掲載されているものの、演奏は行わなかったという。

1983年
この年、初めて正式なトイレが設置され、衛生面、用水の上限、交通量などを考慮して入場が3万人までに制限された。また、3日間の模様を放送するグラストンベリーのオフィシャル放送局「Radio Avalon」の運営が始まったのもこの年から。



1984年
ザ・スミスがヘッドライナーに登場し、ピラミッド・ステージのヘッドライナーはメジャーな人気バンドが務めるべきかどうかという論議を呼ぶことになった(その他のヘッドライナーはウェザー・リポートとブラック・ウフル)。当時の写真ではザ・スミスは確かに心許ない様子で、ジョニー・マーはこの時の出演について「まだ力不足だった」と振り返っている。しかし、ステージ前には10代の観客が押しかける騒ぎとなり、マイケル・イーヴィスは「あれがフェスとしてのひとつの転換点だった」とBBCに語っている。

1985年
グラストンベリーの規模が拡大したことにより、この年からは隣接するコックミル農場の敷地も会場用地に併合することになり、100エーカーほど広くなることになった。また、この年は大雨に見舞われたが、マイケル・イーヴィスは「泥んこ状態になっても、きちんと運営できることがわかってとても満足しているよ」と語った。その後も泥だらけとなった年が頻繁に続いたため、抱負として言い得て妙だった。


1986年
この年はザ・キュアーがヘッドライナーを務めたが、グラストンベリーの音楽的な多様性を象徴するかのようにクラシック音楽のテントもこの年から始まった。クラシック・テントの初代キュレーターは『ジョーズ』、『E.T.』、『シンドラーのリスト』など、映画音楽でも著名な作曲家ジョン・ウィリアムズだった。他の出演者はマッドネス、ザ・ポーグスなど。

1987年
もともと1500人ほどの集客だったグラストンベリーだが、年々参加者は増え、この年には6万人もの集客を誇るようになっていた。なお、現在では17万を超えている。この年の出演者はエルヴィス・コステロ、ヴァン・モリソン、ニュー・オーダーなど。


1989年
1988年は開場の整地のため開催されなかった。殺害予告があったため、1989年に初日のヘッドライナーを飾ったスザンヌ・ヴェガは、自身のベーシストとともに防弾チョッキを着用しての出演となった。しかし、殺害予告は無事、予告のままに終わることとなった。

1990年
初開催から20周年を迎え、もはや知らない人はいない大型フェスへと成長。演劇やパフォーマンスの会場も備えるようになり、正式名称も「グラストンベリー・フェスティバル・フォー・コンテンポラリー・パフォーミング・アーツ」と改められることになった。現代サーカスのはしりともなったフランスのサーカス・カンパニー「Archaos」がピラミッド・ステージで初日と2日目に公演を行い、どちらも観客7万を越えることになっただけでなく、警備も一段と厳しいものになった。


1992年
国際環境NGO「Greenpeace」と「Oxfam」のための募金が始められたこの年、最後までスペシャル・ゲストとして伏せられて発表されたアーティストがいて大きな関心を呼んだ。ゲストは、べテラン歌手のトム・ジョーンズだったという。

1993年
ジョン・フルシアンテ脱退後にアリク・マーシャルをギタリストに迎えてツアーを継続していたレッド・ホット・チリ・ペッパーズがヘッドライナーに予定されていたが、フリーが過労で倒れたため中止に。ピンチヒッターをレニー・クラヴィッツが務めることに。


1994年
開催2週間前にメイン・ステージであるピラミッド・ステージが火事で焼失したが、急遽仮ステージが建てられて開催にこぎつけることになった。また、テレビ番組「Channel 4」でもフェスの模様が放送され、ますますグラストンベリーの認知度を広めることになった。

ただ、フェス始まって以来最初の死者が出たのもこの年で、原因は薬物の過剰服用によるものだった。また、マニック・ストリート・プリーチャーズはセカンド・ステージであるNMEステージに出演したが、ステージでベースのニッキー・ワイアーが泥沼と化した客席ゾーンについて「このクソ溜めの上にバイパスを通すべきだよな」と発言。グラストンベリーの会場は放牧地のため、雨が降ると牛糞を大量に含んだ泥となってしまうことを面白可笑しく言い放ったつもりだったが、まったく受けなかった。

その後、ニッキーはこの時のことを「冗談のつもりだったんだよ。言いながら、『こいつは爆笑もんだ』って思ってたんだけど、ほとんど死に近いような凍りついた沈黙に辺りは包まれたんだ」と回想している。



「47年間の歴史を振り返る!エピソード集後半:1995年~2016年」は明日掲載。この20年の間にどんな事件が起こったのか、ぜひ読んでいただきたい。

参照:英「ギグワイズ」/グラストンベリー・フェスティバル公式サイト