山戸結希監督が描く「少女の自意識」はきっと表現の世界を変えてしまうだろう
2017.11.14 17:30
山戸監督と言えば「少女の過剰な自意識」の描き方が独特であり、それが「天才」と呼ばれる大きな所以であることが知られている。最初に『おとぎ話みたい』を観た時、山戸結希は「映画監督」というよりは、「少女特有の自意識を映像という手段を使ってなるべく100%近く具体化するプロフェッショナル」に近いと感じた。少女や女性ならではのヒステリックや過剰なロマンチシズムは、ただそれを表面的にそのまま描くだけではエキセントリックなものにしかならないが、実際は肉体の内的要因だったり、女性ならではの脳の仕組みに起因していることだ。そのまま映し出すだけでは表現しきれないそれを、女性のホルモンや柔らかい肉体をつくる筋肉、細胞すらも匂わせて描き出しているように感じる。その手法としてモダンダンスだったり、日記や詩を朗読しているかのような、一人演劇チックともいえる長台詞を用いることが山戸作品の大きな特徴である。
山戸監督は大学時代、哲学科で倫理学を専攻しており、将来的には学者になるビジョンもあったそうだ。哲学もそうだが、学問というのは全てを言葉や式に当てはめていくことだと思う。しかし結局、言葉というのはアバウトに決められた記号でしかなく、全ての感情は、100%の正確性を持って表現できることなど1つもないのかもしれない。特に少女時代の憂鬱というものはより感覚的で難解なものだ。『5つ数えれば君の夢』の劇中に「感覚は共感できないから『感覚』である」といった、印象的な言葉が出てくるが、山戸監督はそれを識っているからこそ、その難解さに言葉と映像で挑んでいるのかもしれない。
山戸監督の作品を観ていると、女である自分の個人的な所感として、勝手に涙が出そうになることがある。それは感動や悲しさではなく、少女時代を経て今に至る中で、きっとどこかで感じていたはずの言葉にさえならなかった感傷と、再び出会ったかのようなシンパシーが、身体のどこかで反応しているからではないかと思う。映画はもちろん、MVやそのほかの作品においても、「山戸結希」というレンズ越しに独特な味わいをもって映し出される「少女の自意識」は、今後もっと表現の世界に特異な影響力を与えていく予感がしている。(渡邉満理奈)