フェスの現場などに行って、
実に大勢のひとたちが同じ音を共有している光景などを観ると、
一瞬、ロックがほんとうに市民権を得たかのような気持ちになるが、
それは錯覚にすぎない。
あいかわらず、ロックは少数の者たちによる少数の者たちのための音楽だ。
つまりそれは、社会に不適応な者たちのための音楽、ということだ。
不適応、という言葉については、
いろんな意味がとれるだろう。
そもそもが、これまでの社会からはみでたかたちで登場した「若者」たちが、
そのはみでたことの不適応を反体制の思想へと昇華させた誕生の経緯もある。
しかし、一方で、その意思がなくとも、
われわれは突如として、社会から不適応の烙印を捺されるようなときが現実にはある。
それは、一概に加害者とか被害者とか分けることのできない
(というか、むしろわれわれはすでに吐きそうになるくらい加害者なのだから)
場所で日常的に起きることなのだ。
そして、そのないまぜな空気こそ、事態をより深刻で絶望的なものにする。
モリッシーがやってきたことを振り返ると、
ロックがそうした社会不適応者のための音楽であることを、
つねに主張してきたように見えてくる。
そこには幸福もなければ癒しもなくて、
怒りや罵りや、ひきつるような笑いを誘うユーモアしかない。
けれど、その意味で、ぼくにとっては、
いつもロックはどういうものなのかを測る、指針となっている。
モリッシーを聴いて、
自分がどういうふうにロックを聴いているのかを思い出すのだ。
写真は、彼のキャリアの中でもっとも「失敗作」とされてきた
「MALADJUSTED」のリイシュー。
先に紹介した「SOUTHPAW GRAMMER」同様、
ジャケットも収録曲も変え、自分でライナーノーツまで書いて、
再発しているものである。