世界は、あいかわらず強固である。
それは、びっくりするくらいあっさりとわれわれを疎外するし、
あっけなくかつ恥ずかしげもなく元のかたちに戻っては、
われわれを加害者として加担させる。
たとえば、ボノであればそんな世界の大きな構造をつかまえるように見るだろう。
しかし、アレックス・ターナーであれば、
その世界の端っこにある通りにできた、水溜りの匂いを嗅ぐだろう。
だから、ボノはときに歴史に残る演説のような歌を書くが、
アレックスはこの世界の瞬間に起きている凄まじさに対峙するために、
詩を書くのである。
アークティック・モンキーズを特別にしているのは、
そのようなタフネスである。
世界を飛び回ることで得た俯瞰の視点ではなく、
目の前の小さな光景から世界のすべてを貪り感じ摂るような
非幾何学的な視座にとどまることで(もちろん、かつてのボノもそうだった)、
強靭極まりない反射神経とアジリティをその華奢な身体に装填することである。
風貌が一変するのも当然だろう。
そして、このセカンドからサードへのプロセスには、
ファーストからセカンドへの飛躍以上の凄絶さがあったということだろう。
なにしろ、テーマは格段に膨張しているのだ。
ファーストで問うた「自分」は、
セカンドでその自分をさいなむものを「悪夢」と名づけた。
そして、このサードではまるごと世界を「インチキ」だと告発するのであるから。
そしてもちろん、世界をそのように「見てしまった」とき、
つまり、いま自分の立つその場所を根底から疑ったとき、
それでも狂うことなく自分が立っていられるために要する精神力は、
相応のものとなるだろう。
アレックスのあの顔は、そのなによりの証左だ。
また続けてみる。