M.I.A.はなぜBorn Freeといったのか

M.I.A.はなぜBorn Freeといったのか

何の理由も説明しないまま、民間人をけしかけ、収容していく兵士。わけもわからず無力のまま、それに従うほかない市民たち。バスに乗せられた彼らは、荒野に放り出され、銃殺され、爆破される。これが、M.I.A.が来るべきアルバムに向けて「まずこれを観ておけ」といった映像である。これを踏まえたうえで、自分のアルバムを聴けと言っているのである。

衝撃的な映像ではあるけれど、あえて言ってしまうと、「よくある構図」である。暴力装置としての兵士と、無力な市民。何かに突き動かされるように怒鳴り、殴り、撃ち、殺戮するものと、戸惑い、怯え、従い、虫けらのように地面に転がる(この場合は飛び散る、か)もの。世界はそんなふうに二分され、わたしたちはこの恐怖の中にいる。

しかし、この映像は、そんな古めかしい図式を訴えるものでは決してない。絶対にない。レンズの向きを見ていくとわかるが、そのとらえている視点は「兵士」であったり「市民」であったり、要は両者である。あるときは震える男女をとらえ、あるときは吼えまくる兵士を見つめる。この視点は、どちらも均等に振り分けられている。

M.I.A.は、子供を生んだ。まさしく「Born Free」である。その「Free」とはどんな場所か。誰からも干渉されずに、文字通り、自由に生きていけるような場所だろうか? そうではない。そんなものはない。兵士にも市民にもなれる/にしかなれない場所であり、その自由なのである。そんな自由なのである。

もちろん、M.I.A.は、そんな自由を拒否する。そのとき、Freeとはいったいどんな意味を持つのか。どのようなダイナミクスがそれを実現するのだろうか。兵士か市民かではない場所は誰が作るのか? そんなことを、彼女は突きつけているように思う。凄まじい人間である。
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