リアム・ギャラガーにとってロックとは何か


前回のブログの続き(こちらです。http://ro69.jp/blog/miyazaki/48336)。さて、ビーディ・アイである。ようやくリリースされたリアムのファースト・アルバムを前に、まず確認しておきたいのは、そもそもオアシスとは何だったかということである。

オアシスとは、「みんなのロック・バンド」を目的としたバンドだった。その目的は、パンクを経てシニシズムを経由したロックにあっては長らく顧みられることのなかった目的だったし、時代に生きるわれわれもまた、そのようなオプティミスティックな理想をとうの昔に忘れ去っていた。だから、オアシスは特別で、みな、我に帰ったように彼らを愛したのだ。

なぜオアシスは「みんなのロック・バンド」になろうとしたのだろうか。それは、彼らにとっての教典が、ビートルズだったからだ。オアシスにとってロックとはとどのつまりビートルズであり、それは「みんなのロック・バンド」だったのだ。もっと言ってしまえば、彼らにとってロックとはつまり「みんなのもの」ということだった。ロックは、みんなが共有するもので、みんながそれぞれに生きることを肯定する力なのである。

結論を先取りしたような格好になってしまった。ロックをそんなふうに感じ取っていたオアシスだったが、「みんなが共有するもの」ととりわけ強く感じていたのが、他ならぬ兄ノエル・ギャラガーで、「みんながそれぞれに生きることを肯定するもの」とより重く感じていたのが、つまり、弟リアム・ギャラガーだったのである。

だから、ノエルは誰もが歌える歌を書いた。それが、彼にとってのオアシスだったからだ。彼にとってロックはそういうものだったからだ。一方、リアムは誰にも屈することなく自身の姿をステージのどセンターに屹立させた。それが、彼にとってのオアシスであり、ロックだったからだ。だから、オアシスはみんなのものとなり、みんなの力となったのである。

さて、ここまで書けば、リアム・ギャラガーによるビーディ・アイがどういうものかは自ずと導き出されるだろう。オアシスとは違って、とか、あらたなアティチュードをもって、などということはない。リアム・ギャラガーがオアシスでそうであったように、ビーディ・アイもまた、そのようにリアムが思うロックを突き進めるだけである。

だから、ビーディ・アイは一見、ノエル抜きのオアシスであると結論づけたくもなるのだけど、それは正しくもあり、間違いなのである。かえってわかりにくくなってしまうかもしれないが、ビーディ・アイとは、「オアシスからノエル・ギャラガーを引き算したバンド」ではなく、「よりいっそうリアム・ギャラガーなバンド」なのである。

もちろん、ビーディ・アイのアルバムには、リアム以外のバンド・メンバーによる曲群も収められてはいる。しかし、それはノエルのいなくなったバンドに民主制が布かれたわけでも、リアムの持ち曲が不足していたからでもないだろう。ただ単純に、リアムにとってそれら(リアム以外)の曲がリアムの思うロック・ソングであればよかっただけのことだったと思う。

結果、ビーディ・アイのファースト・アルバム『Different Gear,Still Speeding』は、一点の曇りもない、つまり、雄雄しく、堂々と、迷いのないロック・アルバムとして登場したのである。膝の折れた者には立てと、下を向いた者には顔を上げろと、悩める者には悩むことはないと、文字通り力強い音と、ときには包み込むような優しさを持ったメロディで、やはり、みんなのためのロックを鳴らそうとしていたのである。なぜなら、かつて団地の片隅で誰からも認められることのなかったリアム・ギャラガー少年にとってのロックが、そういうものだったからだ。リアム・ギャラガーにリアム・ギャラガーという名を与えたのが、ロックだったからである。

だから、今後もリアムは作品によってわれわれをびっくりさせるようなことはしない。聴いたことのないような音やフレーズで当惑させたり、煙に巻いたりするようなことはしないだろう。今度のアルバムはサウンドの大転換をはかって、なんてことは考えるわけがない。ただ堂々と、みんなにとってのロックを演るのみである。それが、誰もが等しく誰の干渉も受けずに雄雄しく立つという、リアム・ギャラガーの信じたロックに他ならないからである。