『ジョージ・ハリスン/リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド』が不思議な映画なのは、ジョージ・ハリスンが不思議だからである


いよいよ明日11月19日から公開される映画『ジョージ・ハリスン/リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド』。マーティン・スコセッシ監督が生前のジョージの映像を関係者へのインタビューを交えながら編纂、その生涯を3時間半のドキュメンタリーにまとめた作品。なんたってジョージ・ハリスンの映画なのだ。観ないという選択肢はこの世に存在しないのである。

元ビートルズ!な映画なのだからして、王道を想像される向きがほとんどとは思うが(僕もそうでした)、しかし、観てみるとこれが実になんとも不思議な映画なのである。偉人のドキュメンタリーといえば、その波乱万丈の生涯をドラマチックに、あるいは隠された秘話なども交えながら、最終的にはカタルシスに帰着、というのが一般だとは思うが、そんな印象は意外なほどなかった。いや、ジョージ・ハリスンなのだから、それこそかなり仔細なエピソードまで「知られた話」なのだから、王道感以外の印象など逆にかもし出すには困難かと思うのだけど、いまも残る本作の後味は「不思議」、というものなのである。とにかく、なにか一向に「ジョージ・ハリスンがわかった!」気になれない作品なのだ。

その「不思議」の感触は、おそらく冒頭にスコセッシが持ってきた、庭の映像に極まると思う。

本作の冒頭、花々が咲き誇る庭の映像が映し出される。しばらくすると、その絵はズームアップし、赤いチューリップの花々の絵となる。もうしばらくすると、そのチューリップの向こう側から、ジョージがぬっと現れる。軽い笑みをたたえながら、ジョージはカメラを見つめている――そういうシーン(?)である。とても不思議な感じなのである。

よく言われるように、ジョージ・ハリスンの58年にわたる生涯は、とても特別なものである。時代においても、人間関係においても、大変なシチュエーションを生きた人である。その最中、ジョージがいったいどのような「人生の真理」を求め、見つけたのか、ほとんど誰もうかがい知ることはできないと思うのである。

「ジョージは単純明快な生き方を探っていたんだよね。正直に、また共感をもって生きようとしていたんだよ」
「その道程は紆余曲折としたものだけど、それはそれでいいんだよ。ぼくはジョージはある理解に達したと思うんだよね。それは成功などというものは実はないと、ただ歩いていく道程があるだけなんだということだと思うんだよね」
これは、ジョージの友人でもあったマーティン・スコセッシがローリング・ストーン誌に語った発言である(RO69ニュースより。 http://ro69.jp/news/detail/56799 )。

この述懐が物語るもの。ここに、ジョージ・ハリスンという人物の、処世だったり、哲学だったり、ユーモアだったり、つまりは、まさに「この物質社会に生きるということ」にまつわる彼なりの「不思議な立ち位置」が要約されているように思えるのだ。

この映画には、ポール・マッカートニー、リンゴ・スター、オノ・ヨーコ、オリヴィア夫人、エリック・クラプトン、もうそうそうたるメンツの「回想」が織り込まれている。誰もがジョージを偲び、彼の功績をたたえ、ひとりの人間としての素晴らしさに言及する。しかし、それらどこも間違っていない「回想」が、なんだかひとつも「ジョージとの距離」を詰めていくようにはこの映画は描かれていない。というのも、そうしたインタビューが差し挟まれる生前のジョージの映像は、まるでそういうものとは遊離したかのように、ほわんとしているから。そういう印象なのである。どこか、ここにいる「誰よりもジョージを知る人たち」でさえ、ジョージ自身が距離を置いてきた、まさに「物質社会」の住人にすぎないとでもいわんばかりなのである。

ジョージ・ハリスンは、ある意味達観していたとスコセッシは言う。ほんと、そうだと思う。ユーモアがことのほか好きだったこと、精神世界に不断の関心があったこと、そして、どこか偏屈で、たくさんの友人に囲まれていたにも関わらず、『オール・シングス・マスト・パス』のジャケット写真のようにぽつんといつも独りでいたような印象があること。本作でジョージ・ハリスンの映像を浴びるように観ていて、なぜこんなにも「不思議」を感じるのかといえば、それこそが、ジョージと「マテリアル・ワールド」との間に起きた、柔らかくも決然としたフリクションだったのかも、などと思ったりもしたのである。おそらく自分で撮影したと思しき、あの冒頭の奇妙な映像にとらえられたジョージの笑みは、そういうことだったのかも、と思うのである。

本作の予告編はこちらです。冒頭の「チューリップのシーン」から始まります。