ボブ・ディランらの名盤を手がけたプロデューサー、ボブ・ジョンストンが他界

ボブ・ディランらの名盤を手がけたプロデューサー、ボブ・ジョンストンが他界 - ボブ・ディラン 1966年作『ブロンド・オン・ブロンド』ボブ・ディラン 1966年作『ブロンド・オン・ブロンド』

ボブ・ディランの『ブロンド・オン・ブロンド』やジョニー・キャッシュの『アット・フォルサム・プリズン』などの名盤を手がけたプロデューサーのボブ・ジョンストンが8月14日に他界した。ボブはナッシュヴィルのホスピスで終末医療を受けていた。享年83だった。

オースティン・クロニクル紙ではその数日前までボブは両手で大きな身振り手振りをしながらさまざまな話を語っては周りの人間を楽しませると同時に辟易もさせていたという友人の談話を紹介していて、その後生命維持装置をつけられてから数日で亡くなったという。ボブは痛み止めにモルヒネを投与されていて、「ボブの奥さんからはボブが安らかに息を引き取ったと聞いたよ」とこの友人は語っている。

1932年にボブ・ジョンストンはテキサス州ヒルズボロで生まれ、母親のダイアン・ジョンストンは歌うカウボーイとして有名だったカントリー歌手のジーン・オートリーに楽曲を提供するソングライターだった。ボブもソングライターへと成長し、ビル・ヘイリー・アンド・ヒズ・コメッツやエルヴィス・プレスリーらに楽曲を提供し、これがコロンビア・レコードの目に留まり、レーベルの専属プロデューサーとして活動するようになった。

ボブ・ディランとは『追憶のハイウェイ61』の制作中からプロデューサーとして関わるようになったが、"ライク・ア・ローリング・ストーン"のプロデューサーを務めたトム・ウィルソンとボブ・ジョンストンとの交代劇についてボブ・ディランは「ぼくが知ってるのはレコーディングを予定していたということだけで、いつもスタジオにはトムがいたし、その日にはもういなくなっているとは思いもよらなかったんだけど、ある日、目を上げてみるとボブがそこに立ってたんだよ」とローリング・ストーン誌に振り返っている。ボブはアルバムの後半のセッションから『追憶のハイウェイ61』のプロデューサーをコロンビアから託されていた。

また、ボブ・ジョンストンは1965年にニューヨークで行われていたボブ・ディランの新作用のレコーディングで、当時のバック・バンドだったザ・ホークス(後のザ・バンド)とのセッションにボブが満足できずにいたのを見て、当時自身も住んでいたナッシュヴィルにセッションを移すことを提案し、その後のセッションから『ブロンド・オン・ブロンド』が生まれたことでも知られている。また、ボブ・ディランは以後、しばらくナッシュヴィルへの傾倒が続くことになった。

ボブはその後もボブ・ディランとは1967年の『ジョン・ウェズリー・ハーディング』、69年の『ナッシュヴィル・スカイライン』、70年の『セルフ・ポートレイト』と『新しい夜明け』を手がけることになった。

また、ボブはジョニー・キャッシュのライヴの名盤として知られる1968年の『アット・フォルサム・プリズン』や69年の『アット・サン・クエンティン』のほか、サイモン・アンド・ガーファンクルの66年の『サウンド・オブ・サイレンス』や66年の『パセリ・セージ・ローズマリー・アンド・タイム』、レナード・コーエンの68年の『ひとり、部屋に歌う』、71年の『愛と憎しみの歌』など、数々の名作も手がけてきていた。
公式SNSアカウントをフォローする

人気記事

最新ブログ

フォローする