6人目のストーンズとも言われたミューズ、アニタ・パレンバーグを偲ぶ。享年73歳

6人目のストーンズとも言われたミューズ、アニタ・パレンバーグを偲ぶ。享年73歳

キース・リチャーズの元パートナーとして知られている女優のアニタ・パレンバーグが現地時間6月13日、73歳で他界した。

ブライアン・ジョーンズ、そしてキース・リチャーズと交際し、バンドに大きな影響を与えた彼女とザ・ローリング・ストーンズの関係とはどのようなものだったのだろうか。

「ローリング・ストーン」誌のロブ・シェフィールドは、アニタ・パレンバーグがロックスターたちのミューズという存在にとどまらず、彼女自身がロックンロールの伝説であり、時代を象徴するアイコンだったと記している。


1944年、イタリア人の父親とドイツ人の母親の間にローマで生まれたアニタ・パレンバーグは、16歳でドイツの寄宿学校から放校された後モデルとしての活動を始め、ミュンヘン、ローマを経てニューヨークへ拠点を移した。

その後、アンディ・ウォーホールのザ・ファクトリーでパフォーマンスなどを行っていたという。そして、ロジェ・ヴァディム監督の『バーバレラ』、テリー・サザーンの小説の映画化作品『キャンディ』などの話題作に出演する一方で、1966年より、ミュンヘン時代から付き合いのあったザ・ローリング・ストーンズのブライアン・ジョーンズとの交際を始めた。


彼女がストーンズへ大きな影響を与えたことはよく知られている事実であり、アニタとブライアンが交際を始めた途端にメンバーのファッション・センスがすっかり洗練されたことは有名だ。

ヴィクター・ボクリスによるキース・リチャーズの伝記『Keith Richards The Biography』では、ストーンズとの出会いを振り返るアニタの発言が紹介されている。

「たくさんの人がわたしのことを怖がってたから。特にわたしの世渡りのうまさのせいもあっただろうし、ローマ出身で世界中に行ったことがあって、ニューヨークにも住んだことがあって、いろんな人を知ってたからだと思うけど。それに当時はかなり破天荒だったから。キースとミックなんかよく顔を見合わせて『この変な女、何者?』っていう表情を交わしてたし」

また、この伝記の中でキースは当時のアニタについて、「アニタはなんでも知ってたし、その知ってることをすべて5か国語で話せたんだぜ。それを見て俺はびびったね!」と振り返っている。


ブライアンがアニタに暴力をふるうようになるとキースとの交際を始め、1979年までパートナーの関係にあった。2人は3人の子どもをもうけている。しかしアニタは70年の映画『パフォーマンス』でミック・ジャガーと共演した際にはミックとも男女関係にあったことが噂されており、キースが自身の自伝『ライフ』でこの事実を半ば認めている。

なお、キースはそのさなかに書いたのが名曲“Gimme Sherlter”の煽情的なギター・リフだったと明かしており、アニタとミックのラブ・シーンの映像を観て、演技ではないと確信したと説明している。一方、当時のアニタはこの噂をきっぱり否定していた。


放埒を極めていた70年代のキースとアニタのライフスタイルは伝説と化したが、1978年にストーンズのツアー先のカナダに駆けつけたアニタの荷物から空港で大量のヘロインが発見され際には、キースは実刑判決を受けるか否かの危機的状況を迎えた。

しかし、日頃から身障者のファンを手厚くもてなしていたキースの行いが裁判所の情状酌量に繋がり、チャリティ・ライブの開催を命じられるのみに終わった。その後、ほどなくしてキースとアニタは破局を迎える。

また、ロブ・シェフィールドは1981年の「ローリング・ストーン」誌とのインタビューで、キースが「アニタは素晴らしい人だよ。俺はいつまでも愛してる。でも、一緒には暮らせないんだ」と語ったことを紹介している。

晩年はかつてのミックの恋人、マリアンヌ・フェイスフルと親交を深めていた一方で、回想記の出版を多数持ちかけられていた。しかし、どの出版社もストーンズのことにしか興味を持たないということで、最終的に執筆は断念。

「ローリング・ストーン」誌によると、ミックとキースのその後の関係について触れたアニタは次のような発言もしていたという。

「わたしが思うに、ミックとキースはいつかちゃんと向き合わなきゃならないと思うわ。結婚しちゃえばいいのに。きっとコックさん(デヴィッド・コック。アメリカ有数の実業家で共和党支持者、同性婚を支持している)が取り仕切ってくれるわよ」

アニタ・パレンバーグの逝去に際し、キース・リチャーズは自身のツイッターにアニタの写真を投稿している。

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