なぜ2018年に『リバーズ・エッジ』なのか? その答えがある映画だった

なぜ2018年に『リバーズ・エッジ』なのか? その答えがある映画だった
岡崎京子のコミック『リバーズ・エッジ』を初めて読んだとき僕は18歳。
人間の汚いところを包み隠さず描いているところに本当の美しさを感じた。
いろいろなことに「何も感じない」気がしている青臭い自分に、無感情を情熱として、無感覚を痛みとしてリアルに「感じ」させてくれるこの物語を書いた人がこの世にいるということに、そしてこの物語に共感する人がたくさんいることに、不思議な安心を感じた。

そんな『リバーズ・エッジ』が、発表から20年以上の時を経て実写映画化されると聞いて、その世界が見事に再現されたとして、たとえば今、10代の人たちが観たときにどのようなメッセージを受け止める作品になるのか、正直なところ全く想像がつかなかった。
実際に映画を観て、まずあまりにも見事に『リバーズ・エッジ』の世界がそこにあることに驚いた。
しかし、それ以上に2018年に映画化されることが大きな意味を持つ作品になっていることに驚いた。

愛とか生きている実感よりも、陰惨なニュースが毎日のように流れてくることや、世界終末時計の残り時間が縮まっていくのを肌身に感じることの方が、よっぽど普遍的に世代を超えて共有できるリアルなこと。
二階堂ふみや吉沢亮をはじめとする若い俳優たちは、その普遍的なリアルを岡崎京子が生み出した登場人物を通して、確かな肉体性を持って表現していた。
また行定勲監督は、その肉体性が彼女らの魂の底から生まれていることを証明する見事な仕掛けの演出をしていた(それが何なのかは是非、劇場で)。
もし原作がタイムリーに読まれている時期に映画化されていたら、この肉体性ある演技は絶対に生まれていなかったはず。
どこまでも変わらない世界の閉塞感の中で為す術もなく汚れた美しさを曝け出しながら、それでも生き延びようとする僕たち。
その「僕たち」を20年前よりも大きな断絶を超えて繋いでくれる映画が生まれたことに、再び不思議な安心を感じた。

そして小沢健二による主題歌“アルペジオ(きっと魔法のトンネルの先)”も凄い曲だった。
この曲については、また改めてじっくり書きたい。(古河晋)
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