ライブハウスはもちろん、音楽チャートも大いに賑わせた青春パンクのブームは「AIR JAM」に象徴される90年代後半のパンクロックと、00年代に入ってから成熟していったラウドロックとの間に位置していて、日本のバンドシーンの変遷を捉える上で無視できない出来事だったはずなのに、きちんと総括して語られないまま今日に至っている印象も強い。
ガガガSPがカバーした10曲は、様々なバンドが心に響くメロディ、ハーモニー、メッセージ、物語を独創的なアプローチで表現していたことを再確認させてくれる。今作について語るコザック前田(唄い手)が、あの頃のムーブメントについても振り返ってくれた。
インタビュー=田中大
──00年代前半くらいに盛り上がった日本語のパンクロック、いわゆる「青春パンク」のカバーでアルバムを作ろうと思った理由は、どのようなことでしたか?自分たちが青春パンクというものを通じて知られるようになったのは事実で、そこを大事にする気持ちになったということなんですかね
青春パンクがブームの頃に高校生くらいだった人たちがアラフォーになっていて、家庭を持ったり、会社員としてそれなりの役職に就いたりもするようになって、ライブハウスに足を運びにくくなったりもしているので、時間が昔のままで止まってる人もいるように感じていて。そういう人たちの気持ちをまたホットにしたかったのが、カバーアルバムを作ることにした理由のひとつです。あと、僕らには下の世代のお客さんもいてくれたりするので、「こういうブームがあって、いい曲がたくさんあったんだよ」と伝えたかったのも理由でした。
──ガガガSPは、ずっと青春パンクを背負って活動してきた印象があるのですが。
そうですね。1回「オラぁいちぬけた」とか言って壊してるんですけど(笑)。
──離脱する意思を示したのは、なぜだったんですか?
あの頃って他のバンドも若くて、ブームの中で頭ひとつ抜けたいとみんなが思っていましたし、「俺らは他と違うんだ」というのがあったんです。俺らもそういうことを示したかったんでしょうね。
──あの頃、青春パンクと呼ばれることに抵抗はありました?
抵抗はずっとあるんですよ。ちょっと薄っぺらいものに感じるニュアンスがあるというか。そういう印象はずっと持ってます。でも、自分たちが青春パンクというものを通じて知られるようになったのは事実で、そこを大事にする気持ちになったということなんですかね。
──そんなにポジティブな意味では使われていなかった言葉でしたよね。
そうでしたね。
──「ヴィジュアル系」という言葉に近いものを感じるんですよ。あれももともとはいい意味ではなくて、下に見るニュアンスが含まれていましたから。
ブームで飽和状態になっちゃうと、軽い言葉になってしまうところがあるんだと思います。ガガガSPを始めた時は、青春パンクという言葉はなかったですし。
──ガガガSPが結成された1997年頃は「AIR JAM」に出演したバンドが盛り上がっていて、英語の歌詞の西海岸パンク的なサウンドがライブハウスシーンの主流でしたよね?
はい。当時は周りの友だちや先輩、後輩も英語のバンドばかりやったんです。神戸もメロコアバンドが多くて。僕もメロコアは好きで「AIR JAM」とかを観に行ってた世代です。でも、英語が堪能ではないですし、「日本語でやってみようかな」と思ったんですよね。もともとフォークソングが好きで、「吉田拓郎さんをパンクにしてみたらどうなるだろうか?」「URCフォークをパンクにしてみたらどうなるだろうか?」とかがきっかけやったので、どうしても日本語になるんです。
──青春パンクに多大な影響を与えたバンドといえばザ・ブルーハーツがよく挙がりますが、聴いていました?
僕はザ・ブルーハーツをあまり聴いてこなかったんです。青春パンクがブームになってから「ブルーハーツが好きで」というのを周りのバンドがよく言ってて、後追いで聴くようになった感じでした。だからガガガSPは出自がちょっと違うところはあったんですけど、そういうブームの中に自分たちも入れたのは嬉しかったです。でも、その一方で「自分たちは他と違う」という意識もあったんですよね。
──青春パンクが盛り上がり始めた頃、ガガガSPのライブの動員も一気に増えましたよね?
はい。嬉しかったです。2002年に2ndアルバムを作ったあとは、ライブをするごとに動員が増えていきましたから。
──日本語だったことに加えて、ものすごくダイレクトに言いたいことを表現するのも、お客さんにとって新鮮だったのかなと思います。たとえば2000年に出した“京子ちゃん”なんて、込めた想いが明快じゃないですか。
パワーだけでやってるところがあったので(笑)。振り切れるところまで振り切ってみようという感じやったんです。技術もなかったので、それしかできなかったというのもありつつ、それがよかったというのもあるのかもしれないです。技術があるといろいろなことができて選択肢も増えるから、振り切る必要もないじゃないですか。その点、当時の僕らはあれしかできなくて。小難しい音楽も聴く分には好きなんですけど、自分がアウトプットする場合はキャラクターに合わないという判断もしていましたね。
──青春パンクとして捉えられていたバンドのファンは、中高生が中心でしたよね。音楽的にきちんと評価されることが当時から少なくて、改めて取り上げられる機会もほとんどないまま今日に至っている理由は、そこが大きいのかなと思うんですが。
そうですね。でも、聴いてた人は多かったですし、今回のアルバムみたいな形でカバーをする意義はあったのかなと思ってます。そういうバンドに直接影響を受けたわけではないでしょうけど、今は日本語で歌うバンドが多いですし。「青春パンクが種をまいた」までは思わないですけど、あれによって生まれた流れみたいなのはあるのかもしれないなと考えたりはします。
──青春パンクブームの本格的な始まりは、どこだったと思いますか? 少し違う立ち位置のバンドではありましたけど、MONGOL800のアルバム『MESSAGE』が2001年にリリースされてヒットしたのが大きな起爆剤だったように記憶しているのですが。「こういう曲があったんだ」と示すことをしたいなと。これがきっかけで原曲も聴いてもらえたら、意味があったなと思います
そうですね。2001年はGOING STEADY、MONGOL800、175Rあたりは、もう人気者やったと思います。全国的に火が点いたのはそのくらいからやったのかなという印象です。
──ブームは2005年くらいには落ち着いたという印象だったんですけど、当事者としていかがでしたか?
実感としては2003年の後半くらいにだんだん収束している感じがありました。それはライブの動員もそうでしたね。あと、他のバンドの話にはなりますけど、B-DASHが“SECTOR”という名曲を出したのに、あんまり賞賛されなかったんですよ。それもブームの終わり目を感じた出来事でした。
──2003年の後半頃から収束に向かった理由は、何だったと思いますか?
聴いていたお客さんたちの層が若かったからなのかなと思います。各バンドは中高生を対象にしたわけではなかったんでしょうけど、そこに集中しすぎたのかなと。
──あれから20年くらい経ちましたが、ガガガSPはタフに活動を続けてきましたね。
自分の体調が理由でちょっと休んだことはあったんですけど、ずっとはやってきた感じですね。「活動休止」というのはないままやってきたので。
──いい時ばかりではなかったはずですが。
そうですね。モチベーションがなくなった時もあって、やってるうちにまた出てきての繰り返しというか。そういう中で、こうしてカバーをやりたくなったんです。自分たちではなかったとしても、誰かにこういうことをやってほしいというのもあったので。
──カバーする曲のセレクトは、メンバー同士の話し合いで?
はい。メンバー4人で話し合って、いろいろ出たんです。7曲くらいに絞る案もあったんですけど、絞り切れずに10曲になりました。ウチの音作りはいつもギターの山本(聡/ギター弾き手)が中心なので、どの曲が僕の声に合うのかも判断してくれました。ある程度候補を絞った時点で、「どれにする?」という決め方をした曲もありましたし、2月に亡くなったベースの桑原(康伸/ベース弾き手)の「この曲入れたいんだ」というのもありました。メンバーそれぞれが意見を持ち寄って決まったのが、この10曲です。ほんとはこの世代のバンドに僕らのトリビュート盤を作ってほしいというような気持ちもあったんですけど(笑)。でも、もうやってないバンドもありますし、僕らのほうからカバーして、「こういう曲があったんだ」と示すことをしたいなと。これがきっかけで原曲も聴いてもらえたら、意味があったなと思います。
──語りがいのある10曲ですよ。たとえば、1曲目のGOING STEADYの“もしも君が泣くならば”は、あの頃の空気がすごくよみがえります。
“もしも君が泣くならば”は、これの歌詞がプリントされたTシャツをみんながよく着てたんですね。あの頃、ガガガSPはゴイステとよく一緒にツアーを回ってたので、目にすることが多かったです。あの時代を象徴するTシャツやったと思います。僕は面識ができる前からゴイステを聴いてました。峯田さん(峯田和伸)は僕より2コ上とかなんですけど、ライブを観るまでは「自分たちがいちばん斬新で面白いやろ」と神戸でやりながら思ってたんです。それをゴイステに全部打ち砕かれた感じがありました。あのバンドは魔法がかかってましたよ。僕も対バンしながらそれにとりつかれたひとりでしたね。
──カバーをするにあたってのアレンジは、どんなことを話しながら進めましたか?
ゴイステって僕らの中でウィーザーと繋がってくる感じもあって。だからウィーザーの曲のイントロを意識したりもしてます。他の曲もそうなんですけど、アレンジを決めてくれたのは、ほぼ山本です。彼のアイデアを踏まえつつ、みんなも意見を言って決めていきました。
──MONGOL800の“あなたに”も、当時を象徴する曲のひとつですよね。ガガガSPの“線香花火”のインスパイアの源になったと聞いています。
はい。「こういうわかりやすさを出していいんだ」とCMで“あなたに”を聴いた時に思ったんです。
──“あなたに”が収録された『MESSAGE』はインディーズ作品でしたが、300万枚というとんでもないセールスを記録したアルバムでもありました。
パンク、ハードコアを好きで聴いている人以外にも伝わった印象でしたよね。僕にとって『MESSAGE』は、“あなたに”というイメージでもあって。“小さな恋のうた”はこのアルバムのリリースのあと、みんながカバーしたりとかもする中で名曲となっていった印象ですけど、“あなたに”はその前の段階で僕にとって強烈やったんです。