なぜマカロニえんぴつの曲はこんなにも青春なのにこんなにも大人味なのか?

なぜマカロニえんぴつの曲はこんなにも青春なのにこんなにも大人味なのか?
マカロニえんぴつの“青春と一瞬”が使われたマクドナルドのCMが好きで、今年の2月に公開されたときYouTubeで何度も繰り返し観ていた。そしてそのたびに鼻の奥がツーンとなって、自分が17歳だった頃に思いを馳せていた。そしてこう思うのだ。僕が今10代で、すぐそばにマカロニえんぴつの音楽があったらどんなによかっただろう、と。しかし、果たしてそうだろうか?《つまらない、くだらない退屈だけを愛し抜け/手放すなよ若者、我が者顔で》という言葉は、本当に《若者》のためだけに歌われているのだろうか?


この曲の、まるで夕凪のような穏やかで抑制のきいたアレンジは、一般的に「青春」というワードから想像する「熱さ」や「青さ」とは、いわば正反対の感触をもっている。一方でビート主体で突き進む楽曲もたくさんもっているマカロニえんぴつだが、この曲がこうしたアレンジにたどり着いたという事実は、取りも直さず、はっとり(Vo・G)が「青春」をどういうふうに捉えているかを指し示していると思う。彼が青春を描くとき、そこにはトゲトゲ、ヒリヒリした感情とは別の、もっとシビアで切実な思いが浮かび上がってくる。

あの日々の《つまらない、くだらない退屈》こそが青春そのものなんだという視点は、それをすでに通り過ぎた者のものだ。長過ぎると思えた青春が《一瞬》だったと言い切れるのは、そのあとに短くない時間を生きてきたからだ。青春とは常に終わったあとに過去形で現れるもので、その過去形の青春を、“青春と一瞬”は全力で肯定する。それは今まさに退屈の真っ只中にいる《若者》へのメッセージであると同時に、置いてきた青春への後悔を背負って生きている僕たちすべての大人たちへの「終わってないぜ」というエールでもある。

というようなことを、この“青春と一瞬”が収められた『season』を聴いて思ったのだ。このミニアルバムは《無駄な話をしよう 飽きるまで呑もう/僕らは美しい/明日もヒトでいれるために愛を探してる》と歌う“ヤングアダルト”という曲で幕を開ける。ここで歌われているのは、まさに青春の名残を引きずって打ちひしがれている《ヤングルーザー》の姿だ。


子どもと大人のあいだにあるエアポケットにすっぽりはまったまま、過去も未来も見えないでいる人々の孤独を救う《優しい言葉》と《夜を越えるための唄》。それが、今マカロニえんぴつが自らに課している役割であり、それに自覚的になったことが、基本的に恋愛の歌かバンドや音楽についての歌が多かったこれまでの彼らとは違う普遍性を生み出している。《ハロー、絶望》そして《僕らは美しい》という最上級の肯定の言葉は、意識しなければ出てこないものだと思う。そんな“ヤングアダルト”で始まり“青春と一瞬”で終わる全5曲のサイクルに『season』というタイトルをつけたことは、それが巡り繰り返していくことを示しているようにも思える。

“青春と一瞬”と“ヤングアダルト”、『season』に先んじて配信リリースされたドラマ主題歌“Supernova”でも、はっとりは青春を歌っていた。《破裂する青春の、その六秒前よ透き通れ/僕は歌っている 足掻いている/戻れないなら、繰り返している》(“Supernova”)。絶望と退屈に彩られた青春を、僕たちは繰り返して生きていく。後悔なんてしている暇はない。この曲はそう歌っているように僕には聞こえる。“青春と一瞬”、“Supernova”、そして“ヤングアダルト”。僕は勝手に「マカロニえんぴつ青春三部作」と呼んでいるが、その力強い肯定の響きは、相変わらず退屈で絶望だらけの毎日を生きる僕たちの背中を確かに押してくれている。(小川智宏)

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