星野源の“さらしもの (feat. PUNPEE)”MVを観て考えた――これは誰の物語か?

星野源の“さらしもの (feat. PUNPEE)”MVを観て考えた――これは誰の物語か?
これは星野源の物語なのか、PUNPEEの物語なのか、それともアニメーションを手掛けたオオクボリュウの物語なのか?と、先だって公開された星野源“さらしもの (feat. PUNPEE)”のMVを観ていて考えた。楽曲が持つ親密な空気感はそのままに、そこに込められた思いをわかりやすく伝える、だけではなく、それを拡張して「表現」、いや人生そのものの根幹にあるテーマへと解放してみせる――このMVがやっているのはそんなことだ。


EP『Same Thing』のなかでも、とりわけ「アーティスト・星野源」の抱える孤独を浮き彫りにする楽曲だ。自身を「さらしもの」(MVに先んじて公開されていたリリックビデオの字幕では「Fools」という英訳が与えられている)と位置付けて《この輝きは僕のじゃなくて/世の光映してるだけで》とまで歌う星野の歌と、まるで星野に「影」のように寄り添いその心情を言語化していくPUNPEEのラップ(《だけど君のその世界じゃ/僕も雇われたエキストラだっけ》)。メロウなビートとピアノのループに乗せて、文字通りひとりとひとりで向かい合うようなふたりの親密なカンバセーションが進んでいく。とても個人的な印象を受ける曲なのである。

その“さらしもの”のMVを作ったのが、イラストレーターで映像作家のオオクボリュウだ。彼は映像作家としてPUNPEEの所属するヒップホップグループPSGのMVを制作したことがあるという縁があったり、星野とオオクボは『Same Thing』のリリースに際してこのMV以外にもビームスと組んでTシャツやキャップなどのアイテムを作っていたり、今回のこのコラボレーションには背景があるのだが、それはつまり、星野とPUNPEEに加え、オオクボにも彼らと共有できる何かがあった、ということだ。

実際、この映像作品で、オオクボは見事に“さらしもの”の世界に自分自身の物語を重ねている。MVの途中にはオオクボ自身の自画像も登場するが、ミュージシャンふたりの表現の世界に異なるカテゴリーの表現者である自身を入り込ませることで、音楽という狭い領域から一気に解放してみせるのだ。オオクボのキュートさとナイーブさを併せ持つイラストが、歌詞の内容を丁寧に追いながら楽曲の本質を解きほぐし、星野源の表現の奥底にある「ひとり」の感情が、数々のトロフィー、東京ドームやこれまでのアルバムのアートワークといったモチーフによって浮き彫りにされていく。そして……。

ビデオのハイライトは「孤独」を象徴するマッチでつけた火がろうそくになり、焚き火になり、音楽になり、そして目の中で燃えて炎になるという一連のシークエンスだろう。星野源の音楽がどこから来たのかを、まるで掬い取るようにしてオオクボは映像化する。それだけでなく、音楽の向こう側にある人生観にまで、彼の視線は伸びていくのだ。ラスト、明るく照らされた東京ドームを遠目に望む場所で、星野とPUNPEEが邂逅し、笑いながら言葉を交わす。その光景はまさに、“さらしもの”という曲が生まれた「原風景」とでも呼ぶべきものだし、ミュージシャン同士というよりも人間同士の出会いの景色だ。

これは星野源の物語なのか、PUNPEEの物語なのか、それともアニメーションを手掛けたオオクボリュウの物語なのか。冒頭の問いに自答するなら、これは彼ら3人を含めた我々の物語だ。星野とPUNPEEが紡いだ音と言葉に対する共感がオオクボのクリエイションを導いた。というよりも、オオクボ自身がその共感の理由を掘り下げていくようなビデオだと言ったほうがいいかもしれない。ひとりとひとりのミュージシャンの邂逅は、もうひとりのクリエイターの視点によって、全ての人の内側にある「ひとり」を浮かび上がらせる作品となった。なぜ星野源の音楽がこれほど普遍的な魅力を持っているのか、なぜ彼はPUNPEEをフィーチャーしてこの曲を作ったのか、「さらしもの」とは何なのか、全ての答え合わせをするようなMVだ。(小川智宏)
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