1991年の話


お詫びと訂正です。

前回のブログ、朝いちでそっと直したのですが、
「カメラマン飲み会」、昨日って書いてましたが、正しくは今日でした。
勘違いしてました、私。
朝起きたら、カメラマンシバエリから、

「兵庫さん! 違いますよ! 木曜です!
あたし一瞬、『ハブられた!?』って青くなりましたよ!」

という怒りのダイレクトメッセージが届いてました。
大変失礼しました。
あわてて直して、知人のカメラマン何人かのtwitterを見たら、
「TEPPEIくん飲み会何日だっけ?」「木曜でいいんだよね?」
というつぶやきが飛び交っていて、「あちゃあ、混乱させてしまった」
と、申し訳なく思っております、皆様。

しかし。参加するわけでもないのに、勝手に勘違いして、
勝手に書いて、そして混乱を生んだ俺って何なのか。
これほど純粋に「ただ単に迷惑」な行為があろうか。
と自分で思いました。
申し訳ございませんでした。

で。お詫びと訂正だけで終わるのもなんなので、
「TEPPEIくん、木曜でいいんよね?」とつぶやいていた
ひとり、クボケンこと久保憲司さんについての話です。

そこに参加するカメラマンのみなさんの中で、
私が最も付き合いの古い方です。
音楽ライターとしても、あちこちで活躍中なので、
読んだことのある方も多いかと思う。

元々久保さんは、17歳の時にバンドをやろうと思って
単身イギリスにわたり、しかしなぜかNMEのライブ
カメラマンとなり、数年間ロンドンで活動したあと、
日本に帰ってきて仕事を始めた、という方です。
で、そのロンドン時代に、アシッドハウス/セカンド・サマー・オブ・ラブの
季節や、マッドチェスター・ムーヴメントの胎動期などを、現場で
体験してきた、数少ない、というかおそらくほとんどいない
日本人のひとりでもあります。

で。前にも書いたけど、この会社に入った直後の1991年、
私が初めて一緒に海外出張に行った時のパートナーでした、久保さん。
私、人生初飛行機で、人生初海外。しかも、久保さんとはその時が初対面。
当時、私22歳、久保さん26歳。THE WONDER STUFFというバンドの、
ライブレポートと取材でした。

いろいろあった楽しい旅だったけど、特に強烈に憶えているのが、
「うわ、この人、3人分なんだ」と思ったことだった。
たとえば、僕が海外で取材をするとしたら、
僕、通訳、カメラマンの3人が必要となる。
でも久保さんは、ライターでもカメラマンでもある上に
英語も話せるわけで、つまり、1人ですんでしまうのです。
己の効率の悪さを、あの時ほど感じ入ったことはありません。
で、感じ入ったわりに、あれから20年近くが経とうというのに、
いまだに英語、まったく話せません。

あと憶えてるのは、ストラングラーズを観たことだ。
オフの日に、雑誌で調べて、
「あ、今日ストラングラーズがブリクストン・アカデミーでやってる。
行ってみようよ」ってことになって、電車を乗り継いで、
早く着きすぎて、会場そばのパブで時間つぶしたりして、
そこで黒人のホームレスにたかられたりした末に、
当日券を買って、観たのですが。

当時のストラングラーズって、ヒュー・コーンウェルが脱退して、
代わりに若いボーカリストが入った翌年くらいだった。
で、その若いボーカリストが、やたら熱かったのです。
金髪で、元気で、袖なしのジージャンみたいなのに
ジーンズというスプリングスティーンか尾崎かみたいな
格好で、拳をにぎってふりかざしながら、
「NO MORE HEROS」を歌ったりするのです。

違う。これはストラングラーズじゃない。
と、しょんぼり肩を落として帰ったのを、憶えています。

こないだの、高橋智樹が書いた『PUNKSPRING』の
レビューを読んで、「あ、ストラングラーズ来てたんだよなあ。
ちょっと観たかったなあ」って、その時のことを思い出しました。

ちなみに、ストラングラーズのリーダーのJJこと
ジャン=ジャック・バーネル(ベース)は、日本好きで、
三島由紀夫に傾倒していたり空手をやっていたりした人で、
昔から日本のミュージシャンたちとも交流があって、
一時期などは、日本に住んで、ARBのサポート・ベーシストを
務めていた時期もあります。

こないだ『PUNKSPRING』で来日した時も、新宿ロフトで
リザードと一緒にライブをやって、それをジャパン編集部
井上貴子が観に行ったりしていました。
( これ → http://ro69.jp/blog/japan/32974

「JJ」ときいて、ジャン=ジャックを思い浮かべるか、
YOUR SONG IS GOODサイトウジュンを思い浮かべるかで、
世代がわかります。
「女性誌」を思い浮かべる人は、このサイトを読んでいないと思います。