サザンの「覚悟」を聴く――『東京VICTORY』について書いたコラム的な文章(前編)
2014.09.09 22:45
本日店着日。
サザンオールスターズ1年ぶりのニューシングル『東京VICTORY』。
とてもとても素晴らしいシングル。
って、今さら何いってんねん、という話かもしれないが、やはりとてもとても素晴らしいシングルだ。
新曲が届くたびに、「やはりとてもいい曲だなあ」と思わせる。
それを35年間にわたってやり続ける、というのは本当にすごいことだ。
数年連続で二桁勝利を挙げたピッチャーは一流と呼ばれるかもしれない。
打者もしかりで、数年連続で3割を打てば、一億円プレーヤーになれるのかもしれない。
だが、数年連続するだけでは超一流とは呼ばれないし、レジェンドとも呼ばれない。
球界(シーン)自体を背負う存在にもなれない。
常に勝負を続け、そして常にその勝負に勝ち続け、その結果オーディエンスを「やっぱりこれだよね」と楽しませ続け、かつ新鮮さを与え続けるだけのスタイルを生み出し続けながら、同じだけの安心感を与え続ける。
続ける続ける、ってうるせえなという話だが、ただやはり、そこにこそ、トップ・オブ・トップのキモはあると思う。
「すごいこと」は何年間も続けられることで、「当たり前のように行われること」になっていく。
「驚き」は驚かれ続けることで、やがて「当たり前」になっていく。
「すごいこと」を「当たり前」にしてしまう継続力とその事実こそ、本当にすごいことなのだと思う。
って、ものすごい一般論ですみません。
でも、サザンを聴き続けてきてあらためて思うのは、単に「すごい」ということだけではなくて、「すごい」を当たり前のように、お約束のように、もっというと、季節が巡れば半ば自動的に訪れる風物詩のように続けてきたことの凄まじさだ。
その凄まじさに対し、僕たちはこの上ない畏敬を込めて、「いつものサザンだ」と言う。
サザンオールスターズ、約1年ぶりのニューシングルは理想のサザン像に徹底的に応えた、本当に素晴らしいサザンシングルだ。
でも。
今サザンが35年の時間を経て、あらためて復活を謳い、そして「完璧なサザン」をやることの意味はやっぱり考えなくちゃいけない。
『東京VICTORY』は、その「意味」を考えさせられる、考えざるを得ないシングルでもある。
軽いが重い。
明るいがシリアス。
楽しいが切ない。
未来だが今。
「が」を「だからこそ」にしても意味はまったく同じだが、サザンはこの二律構造を常に貫いてきた。
というか、優れたポップ表現は常にこの二律構造を持っているし、それこそが「普遍であること」の鍵であると言ってもいい。
なにしろサザンである。
完璧に楽しい。と同時に、完璧に切ない。
文学的である。と同時に、どうしようもなくスケベでもある。
そう、最高のシングルである。
しかし、聴けば聴くほど、このシングルほど、この振れ幅の中心で力強く立っている作品はなかったと僕は思う。
というわけで、シングル『東京VICTORY』の意味について、ちょっと書いてみようと思う。
この曲を聴いて、まず思ったのは、音が瑞々しいということだった。
特に、僕はドラムのサウンドプロダクションにそれを感じて、それはつまり、ものすごく「今」である、ということだった。
抜けよくチューニングされたスネアの音が耳朶からスカンと抜けてくる感じ。
つまり、もうむちゃくちゃに気持ちがいい、ということだ。
たとえば、四つ打ちが気持ちいい、というのは今ロックを知っている人ならば誰でも知っていることだ。
だが、四つ打ち、つまりリズムの解釈以上にプリミティヴなやり方はある。
それは、「今」もっとも気持ちいい「音」自体を鳴らすことだ。
「あ、四つ打ち、スキスキ、気持ちいいよねー」という順番ではなく、「あ、この音、いい」とだけ、シンプルに思わせる音。
この楽曲でサザンがやっているのはそういうことだと思う。
ただ単に音がべらぼうによい。あるいは、音がものすごく高級で最新の録音技術をまるっと見せてくれる――
というだけであれば、「だってサザンなんだからさ」で話は終了だ。
だが、「鳴り」が全面に出されている、というのはサザンが今、「そうしたかった」部分だと考えるべきだ。
桑田がソロで使っていたオートチューンを導入していることも同様。
サザンは今、「言葉」や「メロディ」という「理解」の範疇を超え、「音」「鳴り」というフィジカルで直接的な、解釈のブレない何かが語りかけたかったのではないか。僕はそう考える。
つまり、この楽曲”東京VICTORY”はサザンオールスターズにとってのボディミュージック、ということなのだ。
前置きが長くなりすぎました。
続きは後編で書きます。