オアシスはオアシスだから素晴らしい。
オアシスはオアシスなんだからごちゃごちゃいわねえでよいのである。
オアシスはオアシスであるがゆえにそれがオアシスであるかぎりにおいて、
つねに正しい。
オアシスは明日朝日が東からのぼるように、いや万が一西から昇ったとしても、
オアシスにはそもそもそんなことは関係あるはずもなく、
世界最強である。
オアシスは・・・・(以下、「シャンペン・スーパーノヴァ」のアウトロほど続く)。
いつからなのか、このバンドについては、
このような言説が大手を振ってまかりとおるようになって久しい。
いうまでもなく、ほとんど阿呆である。
そこに何がしかひとをうなづかせてくれる理路は存在しない。
しかし、このような根拠なき断言を、むしろ誰もが先を争っていいたがる。
それはもはや、このオアシスというバンドのキャラクターのひとつでもある。
それは、なぜなのか。
それは、オアシスがオアシスだからである!
・・・もうちょっと説明してみたい。
このようなオアシスの絶対性、
言い換えると、その存在を相対的なものではなく、
それがそうであることによってその根拠を言い尽くしてしまおうという
そのような理念は、
オアシスというバンドそのものの、構造的な必然だからなのである。
何度も指摘されているように、
デビュー・シングル「スーパーソニック」が、
「俺は俺である必要がある」というフレーズで始められた瞬間から、
オアシスはオアシスというバンドがどのようなことを欲望しているバンドなのかを、
このうえなく明快に提示した。
それは、その言葉どおり、
「自分の場所は、ほかでもない自分自身によって築き上げる」という宣言だった。
そして、オアシスは実際に、この現実において、
まさに「自分の場所」をとてつもないものとして建設することに成功する。
そして、その「場所」で歌われるのが、
「リヴ・フォーエヴァー」ということなのである。
なぜそのようなことを彼らが欲望したのか。
そしてなぜ、そのような彼らの欲望の成就が未曾有のひとびとに
大いなる希望を与えたのか。
それは、彼らがそれ以外には(つまり自分以外には)
何一つ所有することのないワーキング・クラス出身であったことに由来し、
われわれがそれを熱狂的に支持したのは、
われわれもまた同じように、
どのように自分の場所を築けばよいのか、途方に暮れていたからだった。
だから、オアシスへの批判はときおり、
その「場所」から出ないことに向けられる。
いつもオアシスはオアシスでしかないじゃないかと、
それはそう揶揄される。
けれど、そうであり続けることが、
オアシスがオアシスを規定する、唯一の根拠なのである。
そして、そうあり続けることによって、
オアシスはつねに、われわれにとっての希望の事実、なのである。
そして、もちろん、そのように、
自身であることで自身を雄雄しく根拠付けられるバンドは、
そうはいないのである。