レディー・ガガはなぜもっと見て!というのか
2010.04.12 23:30
レディー・ガガが来日する。アリーナ・クラスの会場は追加席ごと瞬殺のソールド・アウト。世界を回った持ち出し覚悟の豪華ステージ・セットもほぼ搬入するというし、いよいよ日本でも彼女の全貌を体験することになるだろう。
ガガはよくマドンナと比較される。なるほど、そのスキャンダラスでメディア・コントロールな戦略は、かつてのマドンナを彷彿させるところがある。マドンナがマリリン・モンローやマレーネ・ディートリッヒを華麗に引用してきたことと、ガガがポップ史におけるディープ・インパクトなパフォーマーをひっきりなしに演繹していることには、何がしかの系譜を認めることもできるだろう。
しかし、ガガはマドンナではない。それはたとえば、マドンナが自らのファースト・ネームだけを手に、ニューヨークのタイムズスクエアで「神よりも有名になってやる」と誓ったことと、ガガが下積み時代に他人から「レディー・ガガ」と呼ばれたその名前を自らに冠したことの違いが端的に告げている。簡単に言ってしまうと、マドンナは他者を屈服させたいといった意志があるが、ガガには他者に認められることへの抜き差しならない欲望があるということだ。
ガガはなぜあのように過剰な衣装(?)を毎回身に着けるのだろうか。というか、もはや衣装のレベルを超えて、それはひとつの「過剰」という意味以外の何も表していないもののように見える。電話をかたどったヘアスタイル、泡を模したドレス。それは、新たな美の提示といった次元などはるかに追いやる、すさまじくプリミティヴな「注目への欲望」である。
そうでなのある。レディー・ガガは注目されたいのである。誰もが自分の姿に驚き、話題にし、関心を持ち続け、登場を待ち望む。それが、ガガの目下の活動(?)である。マドンナがその初期から「イントゥ・ザ・グルーヴ」とディスコ空間の建設性を喧伝し、「ライク・ア・ヴァージン」と世の道徳への侵犯を訴えたような振る舞いはまだガガにはない。マドンナがその後、徹底的にラジカルなかたちでジェンダーを超え、倫理観も超え、つまりは、自由の領域を80年代以前と以降では劇的に変えてしまったような激烈な情動は、まだガガには感じられない。ガガを見ていて感じるのは、そのピュアな「もっと見て、わたしを」という懇願である。
それではなぜガガはそれほどまでに見られたいのか。そして、なぜわれわれはそんなガガから眼を背けることができないのか。ガガ自身がインタビューなどで語っているように、そこには、現代社会の状況がある。それは図式的に言ってしまうなら、YouTubeやMySpace、あるいはFacebookの時代であり、「セレブ」の時代、である。
ガガはパリス・ヒルトンと同じ学校に通っていたという。パリス・ヒルトンが象徴するもの、それはひとつの現代である。彼女は(これまでのような意味での)表現者ではなかった。女優でもなければシンガーでもない(どちらも後付けでしらっと試されたけど)。けれど、彼女はあまりにも有名になった。そこに何があったのか、いちいちあげるのも面倒なほど、それらのほとんどはどうでもいいことだった。ぶら下げていたバッグであり、新しいペットであり、買い物リストであり。だから、そこには何もなかった。でも、彼女はセレブだった。よく言われるように、非常に現代的な「FAME」を体現していた。
パリス・ヒルトンはなぜ有名になったのだろう? それは、彼女が「有名だ」といわれて登場したからである。なぜ「セレブ」と呼ばれたのだろう? それは、彼女が「セレブ」だといわれて登場したからである。つまりは、そこには何もなかった。あったのは、注目が注目を呼んでいったという現代社会(もっと言うと資本主義社会)のダイナミクスである。
ガガは、この現代社会のダイナミクスを意識的に利用しているアーティストである。というか、そのことをアートにしたアーティストである。ガガが凄いのは、その歌やダンスではない。有名になっていくという、その加速度的なプロセスそのものが彼女のパフォーマンスなのである。
その意味で、ガガが非常に現代的なアーティストであることは言うまでもないのだけど、ではなぜ彼女はそうしなければならなかったのか。それは、時代がそうさせたとしか言いようがない。なぜなら、彼女は本当の「セレブ」でもなければ、そのままでいても絶対に「有名」にはなれなかったのだから。
ガガはよく見ると、絶世の美女というわけではない。スタイルもショービズの世界では不恰好なほうだ。ダンスも超絶的とはいえず、歌だって後世に残るボーカリストかといわれると素直にはうなづけない。つまり、ガガは、普通なのである。普通で、だから、「セレブ」でも「有名」でもないのである。
現代には、YouTubeもMySpaceもある。誰でも、何かを造ったら、全世界に見せびらかすことができる世の中である。こんな時代は、もちろん人類史始まって以来なかったことだ。
だから、誰でもスターになれる可能性がある。それは、論理的にはそうである。誰だって一夜にしてスターに、注目を集めることが可能である。
しかし、そうではない。事実はむしろ逆だ。誰もがスターになれるツールが用意されているということは、誰もがスターになれるわけでないという事実こそむしろ突きつけるからだ。そこにあるのは、才能や美貌や、昔ながらの「スターへの条件」が、よりいっそう残酷に冷厳とそそり立った世界に他ならない。MySpaceに曲を置いたからといって、誰が聴いてくれるだろう? YouTubeでダンスを披露したからといって誰が観てくれるだろう? われわれが生きる時代は、「誰もがスターになれる」という無限の可能性が開かれた光景を目の前にして、「絶対にスターになんかなれっこない」という事実を突きつけられる、そんな時代である。スーザン・ボイルは、YouTubeがあったから有名になったのではない。才能があったから有名になったのだ。
そんな時代に、「普通」でいることの惨さ。その耐えられない絶望が、ガガを突き動かしているのではないだろうか。このような時代の薄っぺらさと、強迫観念の真っ只中に生きること。その馬鹿馬鹿しさと身を切られるような哀しみを、レディー・ガガは自らの全存在をかけて人体実験する。レディー・ガガは、だから極めて時代的だし、文字通りの意味において、「時代の産み落とした子」、つまりはMONSTERである。だから、ガガはもっとわたしを見て!と言い続けるのだし、そんな彼女の不幸から、われわれは目が離せないのである。なぜなら、そこにいるのは、われわれなのだから。