M.I.A.の『MAYA』を選出。
本作への期待は相当に高かった。リリースされるまでは、2010年を象徴する作品のひとつになるだろうという予想が大半だったと思う。僕もそうだった。しかし、すでに発表されているいくつかの主要音楽メディアの年間ベスト・アルバム・ランキングに、この作品が選ばれていることは少ない。選出されていたとしても、その期待度の高さを思い起こせば、ほぼ落胆といった意味合いの低いランキングがせいぜいだ。
理由は、単調さにあったと思う。このアルバムは、今作に込めたM.I.A.のメッセージがあまりにもクリアであったがゆえに、音楽的な豊かさより強度に向かった。それが、嫌気された要因にはあると思う。
しかし、それでもやはり、このアルバムを2010年をシンボライズするアルバムとして、どうしても記録しておきたいと思った。なぜなら、このアルバムは、たとえばレディー・ガガが象徴している時代性に、ほぼ真逆の方向から向き合った作品だからだ。
レディー・ガガが象徴するもの。それは、言うまでもなく、この現代社会におけるメディアとそこに生きるわれわれの総体、である。それは、イメージとその拡散とそれによって巻き起こるフェノメナ、そして、それらに対処しているわれわれ、である。ごくごく簡単にいってしまうと、レディー・ガガはプロモーション・クリップのまさにプロモーションにYouTubeを意識的に利用することで、人類の歴史上かつてない速度によるイメージの流通を実現させてしまう一方、M.I.A.は、そうしたYouTubeに代表されるデジタル・メディアに(ナイーヴすぎるほど)ナイーヴに怯え、怖れ、錯乱する主体であろうとした、ということである。
だから、レディー・ガガはYouTubeに投稿される映像の数だけ「お色直し」をするのだが、M.I.Aは、そうしたデジタル・メディアで切り刻まれる自分の破片をグラフィックとして提出するのみである(アルバム・ジャケットの醜悪さは、まさにM.I.A.が見た現在、である)。それら両者の振る舞いは、まるで同じこの世界に生きるものの合わせ鏡のようである。
そして、M.I.A.は、(当然の帰結として)玉砕した、のである。
それが、この『MAYA』だと思う。
ステージで作り物の乳房から花火を出してみせるレディー・ガガと、あと数日で出産という大きなお腹のままステージに立ったM.I.A.。どちらがどう、ということはできない。できないが、その闘いの仕方が要請するある種の肉体性と、だからこそ宿る悲壮感がM.I.A.という存在を唯一無比にしているのは確かだ。「レディー・ガガの時代」と呼ばれるであろうこの「現在」を正確に記録する意味でも、このアルバムははずせないと思ったのである。
レディー・ガガについて、こんなことも書いていました。
「レディー・ガガはなぜもっと見て!というのか」
http://ro69.jp/blog/miyazaki/33298
M.I.A.については、こんなことも書いていました。
「M.I.A.はなぜBorn Freeといったのか」
http://ro69.jp/blog/miyazaki/33895