ザ・ドラムスはあいかわらず不恰好に踊っていた

ザ・ドラムスはあいかわらず不恰好に踊っていた

ちょうど1年前、「2010年の新人」として華々しくデビュー・アルバムをリリースしたザ・ドラムス。オレンジ・ジュースやフィールド・マイスへの愛を広言し、1980年代の道端に小さな花を咲かせていたポップ・ソングをいま、不敵にも微塵も臆することなく再び咲き誇らせて見せた彼らの「1年後」のステージは、5人体制となり、より音楽的自由度も増したバンドの力量増加をみせつけていながらもなお、あいかわらず不恰好だった。

ジョナサン・ピアースは、さすがに(前回のライブがそうだったように)今夜も「コンニチワ」を連発して巨大な失笑を買うことはなくなったが、それでも、壊れたロボットよろしくしなやかさゼロのぎくしゃくとしたダンスを最初から最後まで披露していた。そして、繰り出されたいくつかの新曲は、これみよがしな「成長」や強制された進化論に盲目的に屈しただけの「変化」などとは無縁の、やはりオレンジ・ジュースやフィールド・マイスが好きであることをぎこちなく、しかし力いっぱい表現した曲として放たれていた。

「驚異の新人」といわれてきたニュー・カマーたちが、いったいどれだけいなくなってしまったか。その事実については、わたしたちはいやというほど見てきた。わたしたちの勝手な思い込みが、彼らに無用の「プレッシャー」や不似合いな「成長」を押し付け、あろうことか「そんなプレッシャーをはねのけた成長のセカンド!」などという「賛辞」で「評価」までしてしまうような倒錯すら横行させてきた。

そんなことは、ほとんど意味がないというのに、である。

いったい誰が何の権利をもってして、彼らに「プレッシャー」を与え、「成長」を強い、あるいは、それをはねのけたことを「褒め称える」のだろうか。わたしたちは、いつからそんな「上からの目線」でこのロック・ミュージックと付き合ってきたのだろうか。

わたしたちは、そんなうやうやしい「評価のバルコニー」ではなく、「好きなバンドのポスター以外は気の利いた装飾もないようなベッドルーム」でロック・ミュージックを聴いてきたのではなかったか。というか、そんな「ベッドルーム」で契り、交わされる約束をもって、「成長」しろだの「進化」しろなどと急き立てる世界に決然と抵抗してきたのではなかったか。もっといえば、たいていのロックのリアルは、そんな「ベッドルーム」から見渡した変わり映えのしない小さな光景の中に、その多くを負っているのではないのか。

話がずれた。

ザ・ドラムスは、オレンジ・ジュースやフィールド・マイスがそうだったように、つまりは、ただちっぽけな「ベッドルームのポップ・ミュージック」でしかないものが、それだけで、その聴き手にとって永遠の「抵抗の構え」を形成するものとなりえたという意味において、まさに、2011年のオレンジ・ジュースでありフィールド・マイスと「なっていた」。

いうまでもなく、それは凄いことである。なぜなら、そんなことはほとんどのバンドにとって不可能なことだから。それは、くだらない小手先の「変化」ではなく、「永遠」を手に入れることだから。

ジョナサン・ピアースの振り上げるちっとも格好よくなく、セクシーでもスタイリッシュでもない右腕の振り上げに、臆することなく呼応していた渋谷クラブクアトロのオーディエンスのいくつもの手は、そんな約束を表す光景だったと思う。

そしてそのことは、ほんとうにほんとうに力強いことだと思ったのである。
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