デビッド・ボウイ、亡くなる

デビッド・ボウイ、亡くなる
余りに突然で言葉がない。
最新作を、今週の自分の番組で紹介しようと選曲していたときに知ったので、事態を受け止められず混乱している。
この先鋭的でみずみずしい、全く老いや停滞を感じさせない傑作は、公式サイトで発表されている18ヶ月の闘病期間に制作されたものだろうか?
ボウイは、自らの死を覚悟しながら、このアルバムを作ったのだろうか?
だとするならアルバム最後の「アイ・キャント・ギヴ・エヴリシング・アウェイ」、私は全てを与えることはできない、という言葉を僕たちはどう聞けばいいのか?

デビッド・ボウイは私生活に関して秘密主義を貫く人ではなかった。インタビューにも積極的に応じ、人前にも気軽に出た。にもかかわらず、デビッド・ボウイには不思議な抽象性があり、存在そのものが作品のようだった。
それは意図的なもであったのだろうが、本人の意図以上にボウイは抽象的な存在であり続けた。
初期のフォーキーなスタイルから、グラム、エレクトロ、ファンク、彼の音楽スタイルは変容を続けたが、どれもがリアルであった。それは彼のリアルがとても抽象性の高いものであったからだ。デビッド・ボウイは、一種の時代性を反映させる鏡のような装置で、映るものによって変化していくのだ。それを可能にしたボウイの抽象性は唯一無二のものと言える。
言いふるされた言葉だが、スターというのは時代の欲望の反映である。だから時代と共にスターは変わっていく。
いつの時代にも向き合えるスターというのは、構造として存在できない。デビッド・ボウイ以外には。

最新作はタイトル・クレジットがなく黒の星だけが描かれている。
ブラック・スターと読ませるようだ。
さっきからずっとこればかりを聞いている。ボウイは前作制作時にケンドリック・ラマーをよく聞いていたらしいが、彼が時代の欲望をとても正確に感じとり、それをデビッド・ボウイという抽象性へと昇華させた、どこまでも美しい作品だ。

混乱しているので、余りしっかりとは書けないのだが、ボウイの死を前に、最新作ばかり聞いている自分、それが黒い星だけが描かれたアルバムであるということ、アルバムのラストが「私は全てを与えることはできない」という歌詞のリフレインであること、その全てがデビッド・ボウイというアーティストが何であるかを指し示しているように思う。もう僕たちはデビッド・ボウイのようなスターを持つことはできないだろう。とてもとても残念だ。

ご冥福をお祈りいたします。
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